◎「~かね」

「きははね(際撥ね)」。限界を超えてしまうこと。動態の限界を超えることを表現します。独立しては用いられず、つねに何らかの動態の限界を越えている事態であることを表現する。

「流るる涙とどみかねつも」(万4160:止(とど)めることの限界を超える。つまり、とどめることができない)。

「思ひかね妹(いも)がり行けば」(『拾遺和歌集』:思ひの限界を超える。もはや思っているだけではいられない状態になる。「妹(いも)がり」は妹(いも)のもと)。

「隈なきものいひも、さだめかねていたくうちなげく」(『源氏物語』:(左馬頭のような)言うことに至らぬところがないような人も明確に言い定めることは限界を越え…)。

「あいつならそういうこともしかねない」(しかねることがない→やりそうだ)。「見かねて」(ただ見ていることの限界を越えて。見ていられなくなって)。

 

◎「がね」(1)

「がかね(が予ね)」の習慣的連濁。「が」は所属の助詞。「かね(予ね)」は昨日(5月6日)。「Aがかね(Aが予ね)→Aがね」は、Aが予想・期待されていること・(人も含め)もの。「きさきがね(后がね)」は后になることが予想・期待されている人(后を兼ねている人ではない)。「みおすひがね(御襲がね)」は「おすひ(襲)」になることが当然予定されているもの(布)。「むこがね」は「聟(むこ):結婚相手」になることが当然予定されているもの(男:情況によっては、聟になることが期待されている男)。これらすべて「かね(予ね)」です。「かね(兼ね)」ではありません。

 

◎「がね」(2)

「こかね(此予ね)」。「こ(此)」は「これ」と自分が言っていることを強調的に示す。「かね(予ね)」は昨日(5月6日)。「こかね(此予ね)→がね」は、これを思い、のような表現。

「丈夫(ますらを)は名をし立つべし後の世に聞き継(つ)ぐ人も語り継(つ)ぐがね」(万4165:語り継ぐのだということ、これを思い)。

「梅の花我は散らさじあをによし奈良なる人の来つつ見るがね」(万1904)。

「朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね」(万2179:この歌五句の「しぐれ」の原文「鐘礼」は「鍾礼」に書き変えられたりしていますが、変えることに何か意味があるでしょうか。「鐘」の音(オン)は『唐韻』に「職容切」とされ「鍾」の音(オン)も『唐韻』に「職容切」とされ音(オン)は同じ、意味は、「鐘」は『廣韻』に「樂器也」とされ「鍾」は『唐韻』に「酒器也」とされます。つまり、楽器を酒器に書き変えた。むしろ、秋山全域に音響を響かせるように影響を与える、という意味で、原文どおり「鐘」の方がよいでしょう。歌で言っていることは、時雨よ紅葉を散らすな、全山に、世界に、もえ広がっていくのだから、ということ。この書き変えは何なのでしょうか。平安時代の学者が鐘を鳴らすより酒の方が雅(みやび)だと思ったということか)。

この「がね」は文法では、助詞、といわれています。