◎「かなり」

「かにあり」。この場合の「か」は気づきとは理性的な客観性を帯びた自覚のそれであり(→「か(助)」の項)、この「か」により、「…か」と何かが自覚されており、ある事象の時間的空間的一般的あり方が自覚されます。すなわち、「かにあり→かなり」とは、「そのようにあるか…、にあり」ということ。それはそう、と、それはそういうもの、と、ただ自覚する状態にあり、ということであり、これが慣用的挿入句の状態になっています(つまり、「かなりの絵」といった言い方はしますが「かなる絵」といった言い方はしない)。

「カナリニ なのめに」(『詞葉新雅』(1792年):「なのめ」は、平凡、ありきたり、といった意味がある)。

「甘藷(カンショ:さつまいも)を作らば……甘味薄くても、ケ成(かなり)に出来ざる事あるべからず」(『広益国産考』(1842-53年):完全ではないがそれなりに出来ないことはない、のような言い方です)。

「かなり さのみ良くも悪しくも無く心よき事を云ふ也(なり)」(『雑筆略注』(1561年))といった古い記録もあります。これが、後世では、それほどでもないが期待以上に、思ったよりも、という意味で用いられているように思われます(→「かなりいい出来」「かなりの人出」)。それは、「か」は疑問や詠嘆にもなるから、ということです。「かなりいい出来」は、こんな出来になるのか? と疑問が生じたり、こんな出来になるのか…、と感嘆が起こったりする出来。「かなりの人出」もそうした人出。

この語の語源は一般に、肯定を表現し『説文』に「肯也」と表現される中国語「可」の音(オン)と断定の助動詞「なり」と言われます。つまり、肯定できる、や、認められる、という意味になる。上記の甘藷の例のような用い方の場合それでもよいように思われますが、それが「かなりの人出」のような意味変貌を遂げるであろうかという疑問があります。(災害で)「かなりの被害がでている」などと言った場合、それは、(被害として)肯定できる被害、や、認められる被害、という意味ではないでしょう。

 

◎「がなり」(動)

「ガねはやり(我音逸り)」。「はやり(逸り)」は勇みたったような状態になること→「はやり(逸り)」の項参照。「ガ(我)」は「我」の音(オン)ですが、通俗的には、「考えや決意などを固く守り抜こうとする心 自分勝手なことを主張して、人に従おうとしない心」(以上『日本国語大辞典』)といった用いられ方をすることが多い。「ガねはやり(我音逸り)→がなり」は、そうした「我(ガ)」を現す(口音の)響きが、音(ね)が、勇み立ったように心情が昂進していること。そうした、「我(ガ)」を現す(口音の)響きは口でさまざまなことが言われ、それは自然、大声であったり甲高い声であったりします。

「忘八(ていしゅ)を呼べと切刃廻し傍(あたり)構はずがなり出せば」(「洒落本」:「忘八」は八つの徳を失った者、という意味の蔑称的書き方。「八つの徳」の内容は人によって異同がある)。

「がなりたてる」。