◎「かなし(愛し・悲し)」(形シク)

「かはにああし(『彼は…』にああし)」。「『彼(か)は…』」は、遥か彼方を見たり、想ったりしていること。「『彼は…』に」は、『彼は…』の状態で、の意。「ああ」は嘆声。要するに、「かはにああし(『彼は…』にああし)→かなし」は、見ることのできない遥か彼方を見ているような思いの表明です。古くは、この言葉は心情的苦痛たる悲嘆を表現するものではありませんでした。最愛のわが子への思いを「かなし」と表現したりします。

「父母を見れば尊(たふと)く 妻子(めこ)見ればかなしく(可奈之久)めぐし」(万4106)。

「世の中はむなしきものと知る時しいよよますますかなしかりけり」(万793:これはその心情の切実さ、限りない奥の深さを言っています(これはある人の死去の知らせを受けての歌))。

これが事態のつらい切実さ、悲嘆的切実さを表現するようになります。

「山伏ニ加持セサセシニ、(山伏が)口ハシリテ、只飢渇(ケカツ)カナシクテ、母ト二人コノ墓(ツカ)ニスムヨシ(「餓鬼」と呼ばれる霊のようなものが)カキクトキ、米酒(ベイシュ)ナト食(ショク)シテ、ヤカテサリ侍(はべ)リ」(『雑談集』:これは、「餓鬼」と呼ばれる霊のようなものが山伏に取り付いてその口をかり「飢渇(ケカツ)カナシ。母ト二人デ…」と訴えたわけですが、その訴えで酒をのんだりおいしいものを食べたりしているのは山伏ですよね)。

 

◎「かなしみ(愛しみ・悲しみ)」(動詞)

「かなし(愛し・悲し)」の動詞化。形容詞の語幹などについて上二段活用(後に四段活用)の動詞になる「び」があり(「みやび(宮び・雅び)」や「荒(あら)び」などの「び」)、それによる「かなしび(悲しび)」という動詞もありますが、四段活用の動詞になる「み」もあり(「かろし(軽し)」→「かろみ(軽み)」)、それによる動詞化が「かなしみ(悲しみ)」。「かなし(愛し・悲し)」(上記)の意思動態になること。

「げにや生きとし生けるものいずれか父母をかなしまざる」(「謡曲」:父母を悲嘆するわけではない。深い心情をもって思う)。

「郭巨、此れを見て、『我が孝養の心の深きを以て、天の賜へる也』と喜び悲むで」(『今昔物語』:深い感銘を受けた。悲嘆したわけではない)。

「山陽道美作国(みまさかのくに)に中山(ちゅうさん)、高野(かうや)と申す神おはします……それにある人の女(むすめ)、生贄にさし当てられにけり。親ども泣き悲しむこと限りなし」(『宇治拾遺物語』:これは深い心情をもって思い悲嘆し嘆いた)。

「…娘一人おはしけり。形ち端正(タンジャウ)にして、心に愛敬有けり。然れば、父母、此れを悲び給ふ事限無し」(『今昔物語』)。

「…ただ独りして 朝戸出の かなしき我が子 あらたまの 年の緒長く あひ見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問ひせむと 惜しみつつ 悲しびいませ…妻も子どもも 彼此(をちこち)に 多(さは)に囲(かく)みゐ…」(万4408:「いませ」は「いまし(坐し)」の已然形であろう。いらっしゃるが…、のような意。これは「陳防人悲別之情(防人(さきもり)の別れを悲しむ情(こころ)を陳(の)ぶる)」歌)。

「王聞きて驚きて悲(かなし)ひ泣きて涙を流し給ふ」(『三宝絵詞』)。

「隣 …アハレフ カナシフ ウツクシフ…」「懇 ネム(モ)コロ カナシフ ハルカニ アカラシ(痛切だ)」「慯 …イタム ウレフ オモフ アハレフ カナシ」「悲 …カナシフ アハレフ ワビ」「忌 イム ……カナシ……ユルシ(※) ウラム」(以上『類聚名義抄』:※ 弛緩させることを意味する「ゆり(緩り)」という他動表現があったと思われ(→「ゆり(許り)」の項)、それによる「ゆりうし(緩り憂し)→ゆるし」という形容詞表現があったのかもしれません。意味は、寛容にしがたい・許しがたい、ということ。この原文は確かに「ユルシ」になっており、「緩(ゆる)し・緩(ゆる)い」では意味が不自然であり、動詞なら「ユルス」と書かれる)。