「がてら(が手ら)」。「が」は所属を表現する助詞(→「母が手(母の手)」)。この場合の「て(手)」は、原意は身体の部分たる人の手(て)ですが、それが人間の自然生態として何かや方向を指し示すことから、(空間的・時間的)方向・あり方、を意味します。「ら」は情況を表現し、そうした情況にあることを表現する。「Aがてら(Aが手ら)~」は、Aというあり方の方向性をもった情況で~、ということ。「がてら」以下の文で表現される「~」がAというあり方の方向性をもったことであることが表現される。「AがてらBする」は、AがBの動態情況になる。Aという動態情況でBする。

 

「『恥がてらはしたなめ給ふ』」(『源氏物語』:「はしたなめ」は、取るに足らないものとして扱い対応すること、馬鹿にして相手にしないような状態になること。「恥がてらはしたなめ給ふ」は、恥(はぢ)るというあり方の方向性をもって取るに足らない者のように扱った。恥ずかしいからばかにした態度をとる)。

「… 吾妹子が 形見がてらと紅の 八潮(やしほ)に染めて おこせたる 衣の裾も とほりて濡れぬ」(万4156:その衣の作用のあり方を形見の方向で(染めておこせたる)、ということであり、形見にという思いで、のような意味になる。「形見(かたみ)」は、死後の形見というようなものではなく、受け、それを持つ人が自分の姿を見ること、自分を思いだしてくれること、ということ)。

「梅の花咲き散る園(その)にわれ行かむ君が使ひをかた待ちがてら(我底良)」(万4041:ひたすら待つという方向のあり方で、ということであり、待ちつつ、のような意味になる。あなたを待つことはまるで梅の花の苑へ誘われるようだ、ということでしょう(この歌は「がてり」でも問題になります))。

「花見がてら行く」(花見というあり方の方向で、花見をしつつ、ということなのですが、花見のついでに行く、行くついでに花見する、のような意味でも用いられます。つまり、動態の目的性・動因を弱める)。