「かてうを(糧魚)」。「かて(糧)」はその項(昨日・4月12日)。「うを(魚)」はその鰓(えら)の動態に着目した「ゆほほ(揺頬)」であり、「ゆ」と「い」は交替し「いを」とも言った。「かてうを(糧魚)→かつを」は、干して保存食(非常食)として利用できる魚、の意。干した保存食とは「鰹節(かつをぶし)」です(この「かつをぶし(鰹節)」という語の「ぶし」は「ブスイ(無水)」か。「ブ」は「無」の漢音。「ブスイ(無水)→ぶし」にする、といった言い方がなされたのかもしれません。意味は、水分を完全になくすこと。もともとは天日で干したり、火の近くで燻製状にしたり、もみ殻の焚火にでも入れて蒸し焼きにしたり、といったこともしたかもしれませんし、ある程度煮て干した煮干しにしたり(平城宮址木簡にある「伊和志(いわし:鰯)腊五升」 (「腊(セキ)」は干し肉)は煮干しか(下記※))、といったことも古代以来やっているようですが、後の鰹節の技術の完成は江戸時代前期です)。魚の一種の名。

 

※ その煮干しを作る際の煮汁、出汁(だし)味のついた汁、は古く「いろり」と言われています。これは「ゆふれおり(湯触れ降り)」か。「ゆ」と「い」の交替。湯に触れると降りる(出る、抽出される)もの(の入った湯や水)。「煎汁 本朝式云堅魚煎汁 加豆乎(かつを)以呂利(いろり)」(『和名類聚鈔』)。

 

「鰹」の字は『廣韻』にその大きいものは「鮦」だ、とあり、「鮦」は『類聚名義抄』に「サメ」と書かれています。その乾燥させた状態が堅いことの印象によりこの字が選ばれた当て字、ということです。字自体は中国にもある。また、『日本雜事詩』(1880年:黄 遵憲クヮウ ジュンケン(清朝末期の詩人・外交官)著)に「堅魚,名加追,漢名未詳,或書作鰹字」とあります。「加追沃」は「カツヲ」と書いたのでしょうけれど、現代の中華人民共和国の音(オン)では「シァジュイウォ」のような音(オン)になります。中国語は語音が変化します。特にK音系やG音系は変化します。まったく別語の状態になります(原文は純粋な中国語ですが、この部分だけは日本での漢字音で書いたのでしょうか。それも不自然な気がします(けしてあり得ないことではありませんが)。この人には古い語音が維持されていたということなのではないでしょうか。漢詩なども書いている人ですし)。

『和名類聚鈔』の「鰹魚」の部分には「堅魚之義未詳」とありますが、これは乾燥させた堅い魚のことなのかある種の魚を意味する魚名なのかよくわからなかったということでしょう。

 

「…水江之(みづのえの)浦島兒(うらのしまこ)が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣り(ほこ)り…」(万1740)。

「鰹魚 …漢語抄云加豆乎」(『和名類聚鈔』)。

「鎌倉の海に、かつを(鰹)と云ふ魚は、彼(か)のさかひ(境)には雙(さう)なきものにて、此の比(ころ)もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍(はべ)りしは、『此の魚、己等(おのれら)若かりし世までは、はかはかしき人の前へ出づること侍(はべ)らざりき。頭(かしら)は下部(しもべ)も食はず、切りて捨て侍(はべ)りしものなり』と申しき。 かやうの物も、世の末になれば、上(かみ)ざままでも入りたつわざにこそ侍(はべ)れ」(『徒然草』(1300年代前半)119段全文:「彼(か)のさかひ(境)」は鎌倉。「雙(さう)なきもの」は並ぶもののないよいもの)。

「かつをと云ふ魚は古(いにしへ)はなまにては食せずほしたるばかり用ひしなり。ほしたるをかつをぶしとはいはずかつをと計(ばかり)いひしなり」(『貞丈雑記』)。

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹(はつがつを)」(「俳句」:これは1678年の『江戸新道』(山口素堂)にある「鎌倉一見の頃」という前書のある句)。

「まな板に 小判一枚 初鰹」(「俳句」宝井其角(1661~1707):前記『徒然草』に書かれているような状態であった魚もまな板に小判が乗っているような状態になった)。

この魚名に関し言われる語源はたいてい、というよりもそれが定説で、「かたうを(堅魚)」。鰹節が堅いから。しかし、前記万1740では浦島太郎は鰹節を釣ったわけではない。

 

(参考)「鰹節(かつほぶし)一つ…………わらんじ(わらぢ:草鞋)……加賀笠」(「浮世草子」『好色五人女』:これは旅支度です。旅に鰹節を持っていく)。