タイトルは「かたむき(傾き)」・「かたぶき(傾き)」と書いてありますが、この語は原形は「かたぶき(傾き)」であり、「かたむき(傾き)」は後発的な変化です。そして意味は基本的にどちらも変わりません。そこで以下は「かたぶき(傾き)」だけ書きます。他動表現は「かたむけ(傾け)」・「かたぶけ(傾け)」ですが、それも説明は不要だと思います。
「かたふみゆき(片踏み行き)」。「かた(片)」は理想的な、完全性の感じられるなにものかやなにごとかとしてある部分域であり、不完全な、一方へ偏した状態にあることを表現します→「かた(片)」の項。「ふみ(踏み)」は実践し、「ゆき(行き)」は進行を表現します。すなわち「かたふみゆき(片踏み行き)→かたぶき」は、理想的な、あるべき完全な状態としてある部分域(それは部分域であり理想的な、あるべき完全な状態ではない、一方へ偏した域)を実践し進行すること。その動態は完全や理想が感じられるあるべき動態に破壊的です。たとえば、面にあらゆる方向において角度90度で直立し理想的な、完全な完成感を生じさせている線が、その完全性が破壊されつつその角度が変更する。その、完全や理想が感じられるあるべき動態、は、物的なそれだけではなく、意味的・価値的・社会的なことに関しても言います。
「(建造物の)隅(すみ)かたぶき」。
「山の端(は)に月かたぶき」。
「国かたぶき」や「法かたぶき」「経営がかたむき」などは、社会的な影響力が衰える。
単に「かたぶき」と言っただけで、不審に思う、不思議に思う、さらには不信を抱き非難的になる、といった意味にもなります(人は自然な特性動態としてそうなるということ)。「竹取の翁『この匠(たくみ:大工)らが申すことは何事ぞ』とかたぶきをり」(『竹取物語』)。「あまり引き違(たが)へたる御事なりとかたぶき…」(『源氏物語』:「引き違(たが)へ」は、受け入れると矛盾を生じさせ、のような意)。この「かたぶき」は疑問や不信をいだいていることを表現し、人は自然な特性動態としてそうした印象になるということですが、これは特に頭部の印象によるものであり、後に現れる表現で言えば「首をかしげる」に似ています。古くはこうした「かたぶき」という表現しかなかったことから後に「首をかしげ」が一般的に定着したということでしょう。
この語の他動表現は「かたぶけ・かたむけ」になりますが、非難する、けなす、名誉や信用を傷つけ貶(おとし)める、という意味で「かたぶき」で他動表現することも現れています(同じ意味で「かたぶけ・かたむけ」も言われます)。「この門の名をぞ人かたぶきける」(『愚管抄』:人が非難的になった)。K音による理性的な気づき確認が活用語尾になっている場合、それは客観的な確認でありI音(四段活用)による他への働きかけがE音化(下二段活用化)していく例は動詞「かき(懸き・掛き・舁き)」にあります(「かき」が「かけ」になっていくということですが、客観的にもE音の外渉感で表現するようになるということです)。活用語尾K音の場合、「むき(向き)」(自動)・「むけ(向け)」(他動)のように、自主動態的な動態を表現する動詞の場合そうした変化が起こりますが、客観的な(表現されている動態の本質として他への働きかけたる他動的な)現象を表現している場合、「さき(裂き)」(他動)・「さけ(裂け)」(自動)、のような表現になりますね。この場合、「さけ(裂け)」は客観的現象の自動表現です。つまり、E音は他への働きかけでもあり客観世界での自主動態でもあり、どちらも外渉感を表現しているということです。
「かたぶき」「かたぶけ」は後に「かたむき(傾き)」「かたむけ(傾け)」と言われるようになるわけですが、それは発音運動が退行化した音(オン)の問題だけではなく、片向く、という意味が働いているこということでもあるでしょう。それでも意味は「かたぶき」「かたぶけ」として作用しているわけですが、なぜ初めから「かたむき(傾き)」「かたむけ(傾け)」という語が現れないのかというと、そうした「片向(かたむ)き」は「むく(向く)」という動態自体が「かた(片)」であり理想的な完全性をもって向かないからであり、「むく(向く)」という動態の完全性や不完全性など誰にもわからないからです。