「かたちしけになし(形無機能け似無し)」。「かた(方・型・形)」は、見た目であれ人間性であれ、理想的一般的にあるあり方(→「かた(方・型・形)」の項3月13日)。「たち(立ち)」は発生を表現し「かたたち→かたち(形)」はその理想的一般的にあるあり方の現実的現れであり、その「かたち(形)」が「しけ(無機能け)」ており(→「しけ(無機能け)」の項)、つまり粗末な取るに足らないひどいものであり、それが他に似たものなく、すなわち自分が最も、「しけ(無機能け)」であることが「かたちしけになし(形無機能け似無し)→かたじけなし」。これは「かたじけ」が「ない(無い)」のではありません。「かたじけ」であることにおいて他に似たものが無い→私が最も「しけ」だ、という表現。これは自己卑下や謙遜として言われます。
「醜陋 下猥也 謂容貌猥悪也 猥 可多自気奈之(かたじけなし)」(『新訳華厳経音義私記』:これは単に、容貌が醜(みにく)かったり穢(けがら)わしかったりすること、と言っている。この書の成立は700年代後半かと言われている)。
「卿等(まへつきみたち)百官人等(もものつかさのひとたち)天下百姓(あめのしたのおほみたから)の念(おもへ)らまくも恥(はづか)し賀多自気奈志(かたじけなし)」(『続日本紀』宣命:宝龜三(772)年に他戸王(おさべしんのう)が皇太子の地位を廃された件のもの)。
この「かたじけなし」は、後世、感謝の思いを表明する慣用的な表現となりますが、これは「かたじけなく」「かたじけなきに」といった副詞的(動態形容的)表現により「かたじけない」動態であることが表現されます。たとえば「かたじけなくもらふ」場合、私はこのような良き物をもらうようなものではないのに(粗末な取るに足らない者なのに)もらう→「有難(ありがた)い(起こることが困難な)ことだ」ということになる。その場合、一般的には、「かたじけなく」ある動態は「もらう」だけではなく、たとえば「くる(来る)」でも成立しますが、その場合、「かたじけなし」なのは―粗末であることに他に例はないのは―来る人ではなく、自分です。「Aが我が家にかたじけなく来る」場合、Aが粗末な取るに足らない動態で来るのではなく、Aのような立派な人が来ることなどあり得ない我が家のような粗末な家にAが来る。もっとも、現実には「くる(来る)」などという動詞は使われず、たとえば「かたじけなくもいらっしゃり」や「かたじけなくもお越しをたまはり」といったような表現になる。そして、今自分に起こっているそれがそうした「かたじけなきこと」であることが表現され、それが下略され「かたじけない」が感謝の思いを表明する慣用的な表現になります。言っていることの基本は、こんな私に、という謙遜です。
「『かたじけなくきたなげなる所に年月をへて物し給事、きはまりたるかしこまり』と申す」(『竹取物語』)。
「天神(あまつかみ)の孫(みま)かたじけなく吾処(あがもと)に臨(いでま)す」(『日本書紀』:これは天孫が自分のようなもののところに現れることがかたじけない。天孫をそのようなめに会わせてしまうことが申し訳ない)。
「かのしゆり(修理・大工:ここではこれが人名のようになっている)が(の)はは(母)のところへ(ハビアンが)やど(宿)たのみければ、したしみできたるゆへに、はは(母)も出むかい、『いつぞやおやど(御宿)申せしより、をりをり御つかひいろいろおくりくだされ、かたじけない』とれい(礼)いふて(言ふて)つれだち(連れ立ち)、ゐんきよや(隠居屋)へ…」(『南蛮寺物語』:「おやど(御宿)」は宿泊させる人をうやまって言った宿泊させること。「おやど(御宿)申せし」は宿泊させたことを謙遜的に言った表現。つまり、いつぞや「しゆり」の母親が「ハビアン」を宿泊させたことがあった)。