「かはとは(「彼は」と端)」。「かは(彼は)」は、あれは、ということであり、「と」は思念的に何かが確認され、「かはとは(「彼は」と端)→かた」は、あれは、と理想的な何かが想念され、その想念されたそれたる端(は:部分域)、ということ。つまり、理想的な、完全性の感じられるなにものかやなにごとかたる部分域(その「は(端)」が理想的な、完全な、なにかなのではなく、理想的な、完全性の感じられるなにものかやなにごとかの部分域)、ということ。特にこの語は、二で完全性が感じられる何事かやなにものかの一、を表現します。たとえば「かたて(片手)」「かため(片目)」。「かたこひ(片恋)」は、双方が互いに思い合う恋ではなく、一方だけが他方を思っている恋。「かたみち(片道)」は往復揃わない一方だけの道。ただし、二で完全になる一だけを表現するわけでもなく、「かたこと(片言)」は全的ではない、不完全な、言語表現。「かたより(片寄り・偏り)」は作用に全的完全性がない。「かたゐなか(片田舎)」も、田舎であることに一辺倒になっている印象の田舎。「かたかな(片仮名)」は、漢字全体からできているのではなく、その一部が取られているからでしょう。「かたまけ(片設け)」は、期待的・推量的に何かのこと一遍の状態になる。「衣かたしき(片敷き)」は、衣を不完全な揃わない状態で(つまり、あの人のいない一人の状態で)敷き、の意。

「…片(かた)泣(な)きに 道(みち)行(ゆ)く者(もの)も 偶(たぐ)ひてぞ良(よ)き」(『日本書紀』歌謡50:ともに歩む者がいるのが良い)。

 

この「かた(片)」という語は常に名詞や動詞に付属し、独立して用いられることはないようです。「かたひと(片人)」などという言い方はあってもよさそうではありますが、「かた(方・型・形)」との峻別が困難になる。そういう場合は強調的にもう一つ「は(端)」(部分域)がついて「かたは(片端)」と言う。物的にであれ、社会的・人間的にであれ、何らかの欠落や欠陥があり完全性が損なわれ、不完全であること。「うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり」(『源氏物語』)。「明うなれば………『いとかたはなるほどになりぬ』などいそげば『なにか今は粥など參りて』とあるほどに晝(ひる)になりぬ」(『蜻蛉日記』:夜が明けぬ暗い内にではなく、日が明るい状態で帰るのは、この時代、欠陥のある「かたは」なことだった。ただし、『蜻蛉日記』のこの場面は、通常の、恋仲の二人が会うといような場面ではなく、他の女性と暮らしている病床にある夫と会っている。著者(藤原道綱の母)としては、帰る姿を人々に見られいろいろと噂されたりすることが欠損・欠陥のある、人として不完全なみっともないことだったということか)。