「かずしをへ(数為終へ)」。数(かず)の確認を終了すること。

「出でて行(ゆ)きし日をかぞへつつ今日今日(けふけふ)と吾(あ)を待たすらむ父母らはも」(万890)。

その場合、「かず(数)」とは全体の中で単位評価したあり方であり(→「かず(数)」の項・3月4日)、単位評価は意味評価となり語総体のなかで意味評価されそれが確認終了する歌が『古今集』序文の和歌分類における「かぞへうた」(※下記)。すなわち、語の意味評価に特別評価努力のある歌、語に独特な意味の用い方がなされた表現がなされている歌。

「ふたつにはかぞへうた。 さく花におもひつくみのあぢきなさ身のいたつきのいるもしらずて、といへるなるべし」(『古今集』序文:咲く花に思いを継(つ)ぐ(つなぐ:咲く花に思いを同動させる)身は期待がむなしい、身に労苦(あるいは病(やまひ))が入ることも知らずに…、ということですが、「咲く花」の意味が独特なものになっており、それは身の労苦(あるいは病)になると言っています)。

※ 『古今集』序文にある「かぞへうた」に関しては一般に「語義未詳」とされています。これは『一つとせ…二つとせ…』などと歌っていく「かぞへうた(数へ歌)」ではありません。

 

白拍子(シラビャウシ:平安末期から鎌倉時代にかけてあった芸能)を演ずることを「かぞへ」と表現しますが、これは「カソウをへ(歌奏終へ)」でしょう(つまり、一般に同語として扱われているが「数(かぞ)へ」ではないということ)。この場合「奏(ソウ)」は「かなで(奏で)」の意であり、舞うこと。動詞「かなで(奏で)」は舞を舞うことも意味する(むしろそれが意味の基本(※下記))。「歌奏(カソウ)」は歌うことと舞うこと。白拍子は歌いつつ舞う(舞いつつ歌う)。つまりこれは「数(かぞ)へ」とは別語ということ(しかし漢字表記では「数へ」と書かれたりもする)。

「白拍子をまことにおもしろくかぞへすましたりければ」(『平家物語』)。

「かやうに狂ひめぐりて心乱るるこの簓(ささら)、さらさらさらさらと、すって(摩って)は謡(うた)ひ、舞うては数へ」(「謡曲」『花月』:簓(ささら)は細い竹材や棒を多数束ねたもので、いろいろな用途には用いるが、伴奏楽器のようにも用いる)。

※ 中国語の「奏(ソウ)」は、原意は、中国の書に「上進之義」と書かれるようなものであり、これが天子などに何かを申し伝えたり、それに聞かせるために音楽を演奏したり、効果などを生じたり(→奏功)といったことを意味する。