◎「かぞ(生父)」

「かはせを(交はせ緒)」。「かはせ(交はせ)」は「かひ(交ひ)」の尊敬表現「かはし(交はし)」の客観的対象の(活用語尾E音化した)自動表現。客観化された表現の間接性は敬いの現れ(つまり尊敬表現。「お交(か)はしになり」のような意。つまり、「かひ(交ひ)」に使役・尊敬の助動詞「~せ」がついているわけではないということです。それとは別に尊敬の助動詞「~し」(四段活用)があり、それがE音化しているということ。父たる人が、(交流している)交(か)ひ人、なのではなく、(客観化している)「を(緒)」が、「交(か)ひ」にある緒(を)、交(か)ひ緒(を:これが先祖総体のような意味になる)、であり、それが交(か)ひ緒(を)の人、を意味した、ということ。また、「かはしを(交はし緒)」でもよいのでは、と思う人もいるかもしれませんが、なぜそうならないかというと、この語の「そ」は『上代特殊仮名遣』における乙類表記だからです。「しを」の場合は甲類表記になるはずなのです)。「を(緒)」に関しては「いも(妹)」の項参照(下記※)。「かはせを(交はせ緒)」は、交流している(が敬いをもって表現されている)緒(を)(の人)という意味ですが、「を(緒)」(過去・現在・未来とへとつながる血族的人間関係(これに敬いが感じられている))を交流させている人、という意味です。これは人の生父・「父」を意味する。古くは「かそ」と清音ですが、後に「かぞ」と濁音化します。

「菱城邑(ひしきのむら)の人鹿父(かかそ) 鹿父は人の名なり。俗、父を呼びて柯曾(かそ)とす」(『日本書紀』仁賢六年是秋)。

「任那(みまな)は安羅(朝鮮半島南部)を以(も)て兄(このかみ)とす……安羅の人は日本府(やまとのみこともち)を以て天(かそ)とす」(『日本書紀』欽明五年三月)。

「父母 ……父 加曽 母 伊呂波 俗云父 和名知々 母 波々」(『和名類聚鈔』:「いろは(伊呂波:生母)」は触れたのが随分前なので再記(下記))。

 

◎(「いろは(生母)」の語源再記)

「いろは(生母)」

「いれをはは(入れ緒母)」。「いれ(入れ)」は「」いり(入り)」の他動表現ではなく、客観的対象の自動表現。客観化された表現の間接性は敬いの現れ(つまり尊敬表現)。「を(緒)」に関しては「いも(妹)」の項(下記※)参照。「いれをはは(入れ緒母)→いろは」は、その「を」が入って入る母(はは)の意。つまり、生みの母、です。では、「を(緒)」の入っていない母はあるのかという疑問もありそうですが、直接に自分の「を(緒)」の入っていない母はあります(先祖たる母体です)。

「其の父(かぞ)母(いろは)の二(ふたはしらの)神、素戔嗚尊(すさのをのみこと)に…」(『日本書紀』:「父(かぞ)母(いろは)の二(ふたはしらの)神」とはイザナキノミコトとイザナミノミコト。『古事記』ではアマテラスオホミカミ(オホヒルメノムチ)やスサノヲノミコトは黄泉の国から戻ったイザナキノミコトの禊(みそぎ)の過程で生まれていますが、『日本書紀』には上記二神により「島生み」に続いて生まれるという話もあります(『古事記』と同じ話もある))。

「天皇(すめらみこと)、大連(おほむらじ)に命(みことのり)して、女子(をみなご)を以(も)て皇女(ひめみこ)として、母(いろは)を以(も)て妃(みめ)とす」(『日本書紀』)。

「父母 ……父 加曽 母 伊呂波 俗云父 和名知々 母 波々」(『和名類聚鈔』:「かそ(加曽)」に関しては上記)。

 

※ 「いも(妹)」の項の一部

「を(緒)」は紐状の長いものを表現しますが、これが臍(へそ)の緒(を)も意味し、「を」が、それによる人間関係、つながり、すなわち遠い古代以来の「を」による人間のつながり、とりわけ影響のあるのは血族や親族や家族や先祖・子孫の関係、その関係にある人たち、といったことを表現します。『万葉集』(歌番4360)にある「今(いま)のを(伊麻能乎)」(今の人々たる子孫)の「を(乎)」もこれです。