「こあぜゐ(子交ぜ居)」。「ぜゐ」のE音とI音の連音がU音になっている。「こ(子)」は全体(親)から生じた部分。すなわち、何かを部分として把握していることを表現します。「こあぜゐ(子交ぜ居)→かず」は、それらの「こ(子)」(全体から生じた部分)を「あぜ(交ぜ)」た、すなわち他の子らと一体化させた(全体として把握した)その「居(ゐ)」、その「ありかた」。つまり、何かを(対象を)、対象それとして評価するのではなく、全体の中で評価したそれ、全体の中で単位評価したそれということ。対象の、全体の中で単位評価したあり方ということです(下記※)。それが「かず(数)」。たとえば、「鳥(とり)の数(かず)」なら、「鳥(とり)」という抽象化された全体・親、から生じた子・部分・個別的具象化体を全体として把握した、全体の中のそのあり方、全体の中で単位評価したあり方。

「「こあぜゐ→かず」は、ひとつ、ふたつ、みっつ…」という表現になります(「~つ」は思念的存在確認表現です)。

「かずなし(数無し)」(「世の中はかずなきものか…」(万4468))、「かずならぬみ(数ならぬ身)」、「もののかずではない(ものの数ではない)」といった表現は、全体の一部として把握し、それを全体として把握することなどない、全体の一部として評価されることのない、の意。

「あふよしの出でくるまでは畳薦(たたみこも)重ね編む数(かず)夢(いめ)にし見てむ」(万2995:最後の部分の原文「将見」には「見えむ」という読みもあるのですが、自発推量的なそれよりも、未来完了推量的に、そうなってしまうだろう、のような「見てむ」の方が良いでしょう)。

「今我等かずの仏を見奉りつ」(『栄花物語』:これは数を考えるほど、ということであり、多数の仏を見た)。

「籌(かず)ささせつ」(『枕草子』:これは、相手の組に審判による勝ちをとられた、という意味ですが、回数や人数などをかぞえるための同じような多数の棒など(これを回数などに応じて単位数づつ移動させたりどこかに刺したりする)を「かず」と言う。「籌(かず)ささせつ」は、相手側に勝ち点を刺(さ)させることをさせてしまった、という意味)。

「なき数に思ひなしてや訪はざらんまだ有明の月待つものを よみ人しらず」(『後拾遺和歌集』:この歌には「京より具して侍りける女を、筑紫にまかり下りて後、(男が)こと(異)女に思ひ付きて、思ひ出でずなりにけり、女頼りなくて京にのぼるべきすべもなく侍りける程に、わづらふ事ありて死なんとしける折、男のもとに言ひつかはしける」という添え書きがある)。

 

※ 「かず(数)」がそのような意味であるということは、たとえば「3たす4」の場合、それは全体の中で単位評価される3と4が合わさるわけですが、「3かける4」の場合、全体の中で単位評価される3が全体の中で単位評価される4になります。「全体の中で単位評価される3」という事象が全体の中で単位評価される1になりそれが4ある、という状態になります。英語の場合の「3 times 4」は原意的には、3回の4、という意味になります。つまり、英語の場合はその数の意味が変わり、4は対象数、3は出現頻度数になります。