「かしづき(遥し付き)」。「かし(遥し)」は2月22日に触れたそれで、『彼(か)は…』(あれは…)と遠くの何かを思う(心情も含め)動態であることを表現します。「つき(付き)」は、接着することが最も一般的な印象でしょうけれど、その原意は思念が活性化することであって、「思いつく」「勢いづく」などのそれのように、思念的な同動(完了)状態にあることが確認されることです(詳しくは「つき(付き)」の項)。「傷がつく」なども、傷が接着するわけではなく、「きず(傷)」という思念が活性化します(傷が現れ認められる)。「かしづく」に関しては「色気づく」の「~づく」がわかりやすいかも知れません。色気が感じられる状態になることです。「かしづき(遥し付き)」は、何かに対し、あるいは何かが、「かし(遥し)」の状態になっていることが思念的に活性化していることが確認されること。『彼(か)は…』(あれは…)と遠くの何かを思う(心情も含め)動態づいていること。何かに心を奪われているような、あるいは何かが心を奪っているような、状態になっていること。Aが常に何かに心を奪われているような、常にAが心を奪っているような(下記『宇治拾遺物語』の例)、状態です。

「昔、をとこ有りけり。人の娘のかしづく」(『伊勢物語』:娘が男に思い焦がれるような状態になっている)。

「伊予介(いよのすけ)は、(空蝉に)かしづくや。君と(仕える君のように)思ふらむな」(『源氏物語』:この「や」は詠嘆的なものでしょう。かしづいているんだろうな…、のような)。

「長者の家にかしづく女(むすめ)のありけるに…」(『宇治拾遺物語』:娘が誰かや何かにかしづいているのではなく、娘に、(とりわけ家の)人々が「遥(か)し」の状態になっている。そうした状態であることが確認される。つまり、大事にされ大切にされ育てられている女(むすめ。つまり、「かしづく娘」と言った場合、娘がかしづく場合と娘にかしづく場合があるわけです)。「四人ながら何(いづ)れとなく高き家の子にて……かしづき出でたる」(『源氏物語』)、などもそうした用い方。いかにも大事にされているという様子で出て来る)。

「かしづきそし」の「そし」は逆効果や虚(むな)しい効果になることであって、これは「かしづき」の度が過ぎている。