◎「かしこ(彼処)」
「かはしこ(彼愛し処)」。「か(彼)」(下記)「はし(愛し)」「こ(処)」に関してはすべてその各々の項。「か(彼)」に感嘆しそれを思っていることが表現され、思念的な「こ(処)」が表現される。「はし(愛し)」はシク活用形容詞ですが、古くは、「うつくしづま(愛し妻)」のような、接続する名詞の前に「き」の入らない表現がありました。意味は「あそこ(彼処)」に似ています(「そ(其)」による記憶想起的思念化が「はし(愛し)」によって表現されている)。「か(彼)」が「あ(彼)」に変化している言い方で「あしこ(彼処)」(これは2019年に触れたのですが後述再記)があります。
「ここにたたかひ、かしこにあらそひ、人をほろぼし…」(『平家物語』)。
「そこかしこに…」。
(以下、過去に触れたものの必要と思われるもの部分再記)
◎「か(彼)」
詠嘆・感慨的な助詞の「か」(→「か(助)」の項)として現れている「か」。この「か(彼)」が文法上の品詞分類として助詞だと言っているわけではありません。詠嘆・感慨的な助詞の「か」として現れているその「か」だということです。たとえば「かのひと(彼の人)」は、「『…か』の人」、「…」という詠嘆・感慨のある人、ということであり、その人が目の前にいれば、その人は遠い昔に会ったことのある人で、あの人か…、と感慨が起こる人であったり、目の前にいない人なら、簡単に現実に会うことは困難な遠い地の人であったりし、「かのち(彼の地)」は、時間的彼方の、遠い昔に行ったことのある地であったり、空間的彼方の、遠い地であったり、さらには、話に聞いただけの想の世界の地であったりする。そうした『…か』である何かが「か(彼)」。後にこの「か(彼)」に代わるような語となる「あ(彼)」に関してはその項(下記)。
◎「あしこ(彼処)」
「あはしこ(彼愛し処)」。「あ(彼)」(下記)「はし(愛し)」「こ(処)」に関してはすべてその各々の項参照。「あ(彼)」は特定性なく漠然と何かを指し示す。この「あ(彼)」は古くは「か(彼)」と言いましたが、後には「あ」が一般的になります。「あはしこ(彼愛し処)→あしこ」は、「あ(彼)」に感嘆しそれを思っていることが表現され、思念的な「こ(処)」(現在感・個別感のある「こ(処)」)が表現される。意味は「あそこ(彼処)」に似ている(「あはしこ(彼愛し処)→あしこ」では「あそこ」の「そ」による思念化が「はし(愛し)」によって表現されている。「はし(愛し)」では何かが感嘆されており、そこには当然「(思念的に)何か」があるわけです。「あそこ」の「そ」は思念的に何かを指し示す→「そ(其)」の項)。
「この国の奥の郡に、人も通ひがたく深き山あるを年ごろも占めおきながら(所有しながら)、あしこに籠もりなむ後また(籠ったのちはふたたび)人には見え知らるべきにもあらずと思ひて(思いながら) ただすこしのおぼつかなきこと残りければ今までながらへけるを(今までそうはせずにいたが)…」(『源氏物語』)。
「『あしこ、あしこ』とて関山も過ぎぬ」(『宇治拾遺物語』)。
「あしこに立てるは何人ぞ」(『梁塵秘抄』)。
◎「あ(彼)」
「あり(有り)」の「あ」に現れる「あ」の音(オン)の全感・完成感が客観的に特定性・個別性なく存在感を表現した。全的な完成感が個別性・具体性のない存在感を表現したということです。「あれ(彼れ)」「あの(彼の)」「あなた(彼方)」「あしこ(彼処)」「あそこ(彼其処)」「あち(彼方)」「あちら(彼方)」。この、「あ」による特定性・個別性のない存在感の表現は、相当に古くからあるのではありましょうが、「あり(有り)」や「あて(当て)」の影響を受けつつの後発的な、発生としては俗語的な、ものです。特定性・個別性のない、そして遠望感のある、情況にあるものの古くからの表現は「か」の音(オン)による「かれ(彼れ)」ですが、「あれ(彼れ)」という表現は平安時代(900年代頃)の、子供が言った言葉をそのまま書いたものの中にあります(『枕草子』152「人ばへするもの」(※)の『あれ見せよ。…』なる幼児の言葉)。 ※ 『枕草子』は段の取り方に諸説あります。