「かむきふるや(神来生るや)」。「ふる(生る)」は、感づかせることを表現します→「ふり(生り・振り)」の項(※下記。その「ふり(生り・振り)」の連体形・終止形)。「や」は感嘆・詠嘆表現にもなる(「おしてるや難波の崎よ(崎より)」(『古事記』歌謡54))、疑問表明にもなる。神が来て感づかせているのだろうか…、という表現。まるで神が来ているような、神の到来を現しているような…、という表現。舞うように、踊るように、あるいは演劇のように、そのような動作・しぐさをするのである。音響が奏でられたりもする。生(ふ)っている主体は人間である。人以外の自然物の動態はこの意味での「ふり」にはならない。「猨女(さるめ)君氏,供神楽之事」(『古語拾遺』)。「神楽 カクラ」(『色葉字類抄』)。

この語の語源は「かむくら(神坐)」とするのが定説と言っていい(折口信夫(をりくちしのぶ)の説)。「とりもの(採物)」と言われるところの、神楽においてそれを舞う人が手にする榊(さかき)や幣(みてぐら)などが神が降臨するその「くら(坐)」なのだという。しかし、「くら(坐)」はそこにある(そこに坐した)者の権威が高まる効果のある特定場ですが、舞う巫女その他が手にするそれが神の権威を高めるとは思われません。ちなみに「みてぐら(幣)」は「御手坐(みてぐら)」ですが、この「て」は神楽においてそれを手にする巫女その他の手と解されているようです。しかし、神に奉納する舞においてそれを舞っている巫女その他の手を「みて(御手)」とは言わないでしょう。これは神の手であり、それを介し様々な奉り物が神に届けられる(神が受け取る)。つまり、それは神の坐(くら)ではなく、手の坐(くら)。そこに手たる権威が生まれる。

※ 「ふり(生り・振り)」(動)

H音が感覚的な触れ(感づき)の語感を表現する(※下記)。自動表現では何かが感覚的に触れる情況に(感覚的に感知される存在の現れに)なること。他動表現では何かを感覚的に触れる情況に(感覚的に感知される存在の現れに)すること。感覚的な触れ(感づき)は発生感としても伝わる(表現される)。「地震(なゐ)がふる」(自動)。「魂(たま)ふり」。

 

※ 「ふ(生)」

H音の感覚感、触れ・感づきの語感は発生感として伝わり、U音の遊離感のある動態感とともに発生・膨張・出現経過を表現する(下記※)。すなわち動態的な発生感、(とりわけ植物の)発生情況(繁茂)を表現する。「しばふ(芝生)」「よもぎふ(蓬生)」その他。

※ この「H音の感覚感」とは、環境との交感、原因に自己確認なく(原因が自己という確認なく)起こる交感、であり、それが「ふれ(触れ)」の「ふ」でもあり、何もない状態が、なにか有る、という状態になる発生感でもあり「ふ(生)」の「ふ」でもあるということです。