「のからの」。語尾のR音は退化した。のからの→ぬがあぬ→んがん→が。「の」はN音の客観的認了感・均質感にO音による目標感・対象感が生じそれゆえに帰属を表現する助詞。「から」は相互的に交感し交流情況にあることを表現し、その種類性・属性を同じくすることを表現する→「から」の項参照。その種類性・属性を同じくするとは、AのからのB→AんがんB→AがB、と言った場合、Bの現象としての種類性・属性がAの種類性・属性に限定されるということです(下記1)。また、これは、Aによる、私の種類性・属性はBだ、という宣言的表明にもなる(下記2)。

(1)Bの現象としての種類性・属性がAの種類性・属性に限定されるとは、たとえば「母が手」「梅が枝(え)」といった表現(所有・所属を表す格助詞(「霞ヶ浦」「戦場ヶ原」などのように、これは地名に多い))がそれであり、「母の手」は一般的な母の手であるのに対し、「母が手」はその言語主体の人生経験に根ざしその属性が母(A)に限定された手(B)です。

(2)私の種類性・属性はBだ、という宣言的表明とは、「我が大君(おほきみ)」「我が命」などといった表現がそれであり、「我が大君」は、その言語主体の人生経験に根ざしその種類性・属性が「我」(A)に限定されている「大君」(B)であり、他にない「我」たる「大君」がそこにあり、「大君」は「我」の、我だけの、属性になり、そうした宣言的効果表明にもなる。これが「我(わ)」の属性を世に宣言している場合、「我が大君」は「私は大君だ」の意にもなる。たとえば「太郎が豚」と言った場合、太郎が所有する豚なのか太郎は豚なのかはそのときの表現が置かれている情況次第です。

この後者(2)、世への宣言系、表明系の「が」によりBの部分に動態が表現された場合、「が」は主語を表す助詞(主語を表す格助詞)になり→「太郎が行く」(「行く」の動態属性が「太郎」に限定されている)、A・B双方に動態や情況が表現された場合(つまり、A・B双方が文になった場合)、接続助詞になる→「太郎が来たが帰った」。最後の接続助詞の場合、「春だが寒い」のように、「が」は逆説的な表現に用いられますが(→「やると言ふがやらない」「学校へは行くが授業に出ない」)、それは事実上逆説表現の必要性がほとんどだからです。言語表現として「冬になったが暖かい」の必要はあっても「冬になったが寒い」(「やると言ふがやる」「学校へは行くが授業に出る」)を表現する事実上の必要性はまずないのです。なぜなら冬になることの属性は寒いことだから。ある年の冬が特異的に寒い場合は「今年は冬が寒い」になる。