「おふもおひ(「追ふ『も』」追ひ)」。「おふと(追ふ『と』)→おと(音)」の場合、「と」は何かを思念的に確認し、その思念的に確認される何かは何かを追って現れたようであり、そうした、追って現れる思念的現れを生じさせる現象、その現象を追うように思念が現れる現象、ひきつれるように思念を生じさせる現象が「おふと(追ふ『と』)→おと(音)」(→「おと(音)」の項・10月17日)ですが、「おふもおひ(「追ふ『も』」追ひ)」の「おふも(追ふ『も』)→おも」は、意思動態を表現するM音と対象化するO音により「も」が心情的な意思内容を表現し、「おふも(追ふ「も」)→おも」は起こった意思心情的な動態を追ひ現れる心情的な意思内容を表現する。「おと(音)」は名詞化しますがそれは音源たる現象が客観的にあるからであり、この「おも」は心情的な意思でありそれはなく名詞化しない。「おと(音)」は客観的な名詞となり動詞化しない。その「おふも(追ふ「も」)→おも」を追ふ「おふもおひ(「追ふ『も』」追ひ)→おもひ(思ひ)」は、その「おふ『も』を」、「おも」を、追跡する、そこへ向かって行く方向感のある対象感のある動態情況に、なること。単純に言えば、ある思考心情内容を意思にかかわらず追跡する状態になることです。思考心情内容がないわけではない。したがって自分がなぜそうなるのか分からないわけではない。しかし、その思考心情内容は、意思にかかわらず、そうなる。典型的なのが恋の思ひ。その恋が成就することは百パーセント有り得ないとわかっている、あるいは、そこへ突き進めば人生が悲惨な末路を迎えることがわかっていたりする。しかし、ふと気づくとその思ひを追跡している。この「おもひ(思ひ)」という言葉の応用、それが用いられた慣用的な表現は非常に多い→思ひあがった、思ひ入れ、思ひ起こし、思ひ思ひ(各自)、思ひがけず、思ひ返し、思ひ切って、思ひ込む、思ひ知らせ、思ひ過ごし、思ひ直し、思ひやり……あるいは、片思ひ、親思ひ……その他。

 

「山峡(やまかひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をかおもはむ」(万3967)。

「われを思(おもふ)人を思はぬむくいにやわがおもふ人の我をおもはぬ」(『古今集』)。