「おほひいるみえのむち(大日射る見えの貴)」。「み(見)」は動詞「み(見)」の連用形名詞化。「むち(貴)」はその項参照(11月30日「おほなむち(神名)」の項)。「の」は助詞。「みえ」の「え」はY音ではありません。すなわち「みえ」は「見え(mie)」であって「見え(miye)」(動詞「見ゆ」の連用形)ではない。この「え」は驚きを表現します(「え(驚)」は8月14日(下記※))。そこには驚愕がある。「おほひいるみ(大日射る見)」とは、「み(見)」が大日(おほひ)が射(い)る状態であること、光しかないこと、です。その光しかない状態が「え(驚)」を、驚愕を、もたらすこと、もたらしていること―それが「おほひいるみえ(大日射る見え)→おほひいるめ」です。光しかないそこになぜ人は驚愕するのか。人はそこに奇跡を見るのです。人はそこに奇跡を見ている。それは奇跡の光なのです。そしてその主体はここでは表現されておらず、次に助詞の「の」が入り、均質化・客観的認了化、客観化が生じ、そのことの「むち(貴)」、と神名が表現されます。つまり、ここでは何ら主体が表現されていない。光しかない現象が表現されているだけです。この神名の「め」は「女(め)」と解するのが一般ですが、「~女のむち」という神名表現は不自然に思われ(「貴人」と書いて(「むち」と読む表現はありますが、「貴人のむち」や「人のむち」という表現は無い)、日本の神話は「光る女のむち」や「光る人のむち」が主神になるという構造にもなっていません。ただし、この神が女神として現れていることは『古事記』や『日本書紀』の内容から分かります。
別名「あまてらすおほみかみ(天照大神)」。
この神はイザナキノミコトが黄泉(よみ)の国からもどりその穢(けが)れを滌(すす)ぐ禊(みそぎ)の過程でうまれています。すなわち、死の穢(けが)れを滌(すす)ぐこと自体からうまれている。
「是(ここ)に、共(とも)に日(ひ)の神(かみ)を生(う)みまつります、大日孁貴と號(まう)す。大日孁貴、此(これ)をば於保比屢咩能武智(おほひるめのむち)と云(い)ふ、……一書云天照大神(あまてらすおほみかみ)、一書云天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」(『日本書紀』)。
※ 「えも言われぬ香り」(陶酔し『え』の声も出ないほどの香り)、「え(衣)も名付けたり」(万4078:よく名付けたものだ)などのそれ。