◎「おぼし(思し)」(形容詞シク活用)
昨日(11月日24)は動詞の「おぼし(思し)」でしたが、これは形容詞(シク活用)の「おぼし(思し)」です。
「おもひおひおひし(思ひ生ひ生ひし)」。これが「おもほほし」のような音(オン)を経て「おぼし」になっています。いかにもある思いがする、思ひが膨らんでいく、感じだ、という表現です。
「おぼしきこと言はぬはげに腹ふくるる心地しける」(『大鏡』:(自然に)思われること→思うこと、思いがふくらんでくること、を言わないのは腹膨れる心地がする)。
「~とおぼし」と言う場合、「~」たる思い、「と」で思念的に確認される「~」たる思いが膨らんでいきます。いかにも~と思われる、ということです。
「御格子一間(ひとま)上げて『見たてまつり送りたまへ』とおぼしく御几帳引きやりたれば…」(『源氏物語』:(六条御息所(みやすどころの)の女房の中将が六条御息所(みやすどころ)に)『…見送りたまへ』と言っていると思われる様子で几帳を引いた)。
「犯人とおぼしき男」。
◎「おぼしめし(思し召し)」(動詞)
昨日(11月24日)の動詞「おぼし(思し)」に、この語が動詞についた「おぼし~」という表現は非常に多い(大きな辞書の項目になっているものだけでも180近くある)、とありましたが、「おぼしめし(思し召し)」もその中の一つです。「めし(召し)」は動詞「み(見)」の尊敬表現であり、見た(御覧になった)、というこの表現がさまざまなことの間接的な表現になり、表現の間接性ゆえにそれは尊敬表現になります。「おぼしめし」の場合は「おぼし(思し):思ひ」を見た、という表現が、そういう思いがあった→思った、を表現する非常に厚い婉曲的表現となり、この表現の婉曲性が遠慮・尊重感の表現となります。つまり「おぼしめし」は尊敬表現であり、尊敬表現性を省いて表現すれば、「おぼしめし」は「おもひ(思ひ)」であり、「おぼしめす」は「思ふ」です。
昨日(11月24日)、動詞に「おぼし」が添えられている「おぼし~」という表現は180近くといったことを言ったわけですが、その180の中の一種になるのですが、「おぼしめし」が動詞に添えられている「おぼしめし~」という表現も多いです。
「心ぼそげにおぼしめしたる御けしきもいみじくなむ」(『源氏物語』)。
「そのみこ、女をおぼしめして、いとかしこう恵みつかう給ひけるを」(『伊勢物語』:ある女に思いをとめ、非常に大事に思いつかっていたのだが)。
(「おぼしめし~」に関して)
「おぼしめしいづ(思し召し出づ):思ひが生ふことが現れる→思いだす・思い起こす」。「おぼしめしいり(思し召し入り):思ひが生ふことに入る→深く思う、思いつめる」。「おぼしめしわすれ(思し召し忘れ):思ひが生ふことが喪失する・起こるべき時に起こらない→記憶が喪失する、うっかり忘れる」。その他。