「おといゐ(「お」とい居)」。「お」の遊離感のある独立した存在感に関しては「おき(置き・措き)」の項参照(9月2日)。「と」は助詞。思念的に何かを確認する。「い」はその進行感により連続感永続感を表現する。「ゐ(居)」はそうあること。「おといゐ(「お」とい居)→おち」は、遊離感のある目標感、そこへ向かって行く方向感のある対象感と(この「と」は思念的に何かを確認する「と」。同行する共同態を表現するわけではありません)永続的にあることです。物的な現象としての自然落下(さらには、落下したようになくなること)も意味しますが、それはこの動詞の一つの、そして日常的に非常に頻繁に用いられる、応用場面であり、「おち(落ち)」の意味の本質は、何かが切り離され、遊離した状態になることを表現します(そして、木の実であれ、岩であれ、日常的に遊離は自然落下をともなう。情況が遊離すれば喪失する)。「(気持ちが)落ち着く」といった表現も気持ちの状態に遊離感が生じ安定する。(他動表現で)「見落とす」なども認知から遊離している。「城がおちる」などは現状から遊離する(現状構成力を喪失する)。勢いが落ちたり生活レベルが落ちたりすることは、勢いや生活レベルには上昇感や下降感があるということでしょう。「~におち」と言った場合、遊離が生じ「~」のもの・ことになってしまうような状態になります。「穴におち」はもちろんそうですが、「口におち」は人々の話のたねになること、「案におち」は同じ考えになること、「腑(フ)におち」は遊離感が生じそれが内臓になったかのように納得すること。
この動詞は上二段活用です。終止形二音で、語幹があり活用語尾があり、という単純な成り立ちの動詞ではありません。否定は「おたず」ではなく、「おちず」。他動表現も「おたし」ではなく、「おとし」。
「星(ほし)有(あ)りて京(みやこ)の北(きた)に殞(お)つ」(『日本書紀』)。
「汝等(いましたち)、妄(みだり)に信(う)け既(すで)に人(ひと)の権(はかりごと)に堕(お)ちき」(『日本書紀』)。