「おくおのならひ(置く己習ひ)」。「ら」のR音は退化し「おこなひ」という名詞が生じこれが動詞化した。「おき(置き)」(9月2日)はその項参照。「おくおの(置く己)」は自分で置く自分、「おくおのならひ(置く己習ひ)」はそれに習いそれになること。つまり、「おこなひ(行ひ)」は、自分で決めた自分、自分でそうあるべきと思う自分、何らかの理由により義務としてある自分、になること。それを遂行することが動詞としての「おこなひ(行ひ)」。この言葉は古くは葬儀や儀式を作法通りに遂行すること、仏教の勤行(日々の勤め。たとえば読経)、修行などを意味しました。

「東宮(まうけのきみ:「設(まう)けの君(きみ)」は、期待されている君、予定されている君、のような意味ですが、ここでは大海人皇子・天武天皇のこと)天皇(すめらみこと:崩御の床と言っていい重篤な病床にあった天智天皇)に見(まみ)えて、吉野に之(まか)りて修行仏道(おこなひ)せむと請(まを)したまふ」(『日本書紀』:吉野に入り、その後「壬申(ジンシン)の乱」(672年)になります)。

 

「我(わ)が夫子(せこ)が来(く)べき宵(よひ)なりささがねの蜘蛛(くも)のおこなひ今宵(こよひ)しるしも」(『日本書紀』歌謡65:「ささがねの(佐瑳餓泥能)」は、「ささがに」(蜘蛛の別名)のこととも言われますが、「ささがに」(蜘蛛)という語にも影響された、「『ささ』が音(ね)」ということでしょう。「ささ」は人を誘う発声。この表現に(「くも(蜘蛛)の)枕詞と言いうるほどの一般性があったのかどうかは不明ですが、たぶんこの歌を作る際に思いついたものでしょう。この表現は意味不明になっていたり何かの間違いと思われたらしく、後に「ささがにの~」として伝えられたりもしています。しかし、ササガニの(蜘蛛の)クモ(蜘蛛)、という表現は奇妙です)。

「板屋のかたはらに堂建てておこなへる尼のすまひ、いとあはれなり」(『源氏物語』:仏教上の務めをすることを意味しています)。

「うたがふ所なく科人(とがにん)は熊丸よ。前代未聞の大ざいにん。それさがし出しておこなへ」(「浄瑠璃」:これは、なすべきことをする→処罰する、という意味になります)。この、なすべきことをする、は食材になすべきことをすればそれを調理し食べることを意味し、米を乞う者に施したりすることも意味したりもします。「米(よね)、魚(いを)など乞へば、おこなひつ」(『土佐日記』)。「(新田義貞が足利尊氏の措置に納得がいかず、自分の領国内の)足利の一族共の知行の庄園を押へて、家人共にぞ被行(おこなはれ)ける」(『太平記』:自分の家来の領地にしたわけですが、これを、なすべきこととしてやった、と表現しています)。