「おきふれ(置き触れ)」。置いて(置かれて)触れる。「おくり(送り・贈り)」(9月15日・昨日)の場合「置き」は他動表現ですが、「おくれ(後れ・遅れ)」の場合は自動表現です(→「霜がおき」)。つまり、「おきふれ(置き触れ)→おくれ」の意味は動詞「おき(置き・措き)」と「ふれ(触れ)」の意味の問題になるわけですが、それは何かに関し「おき(置き)」の目標感・遊離感、離れ感が自動的に生じつつ触れる(交感・関係性が保たれる)ことということです。何かに関し「置き」の目標感・遊離感、離れ感が自動的に生じるということはその何かに置かれたという受身の語感が生じているのと同じことになります。たとえば、Aに置かれて(Aに目標感・遊離感、離れ感を生じさせられて)触れ(交感・関係性を保ち)、は、それが時間的な運動推移による遊離感、離れ感の場合、遅れて着く、という状態になります。社会的・能力的評価に関し「置かれる」場合もあります(下記※)。要するに、「おくれ(後れ・遅れ)」は、時間的空間的社会的距離感をおいて触れる(交感・関係性を保つ)こと。「おくれ」が取り残されること(死別で取り残されることも)、「おくれゐ(遅れ居)」が死別することを意味したりもします→「母には七歳でおくれ候ぬ」(『平家物語』:死別した)。心情進行が消極化することも言う→「キおくれ(気後れ)」。
※ 社会的・能力的評価が遊離している場合「すすんでいる」場合と「おくれている」場合があるわけですが、人は、「すすんでいる」場合は置くのであって置かれない、「おくれている」場合は置かれるのであって置かない、ということです。
「あしたづ(葦鶴)のひとりおくれて鳴く声は…」(『古今集』)。
「まことにおくれたる筋なしとは…」(『狭衣物語』:これは、いわゆる「おくれげ(遅れ毛):後から生え育ちの良くない毛」がないと言っている)。
「梨の花………あいぎゃう(愛敬(下記※))おくれたる人の顔などを見てはたとひに言ふも…」(『枕草子』:「愛敬 (アイギャウ)」に関し評価として劣っている)。
※ 「愛敬」は後世では「アイキョウ」というようになり「愛嬌」とかかれたりもしますが、ようするに好意をもって心惹かれ好むことです。古くは「愛行」と書かれたりもしました。これは元来は「愛迎(アイギャウ)」かもしれません。「ギャウ」は「迎」の呉音。意味は、愛を迎える状態になるということ。「愛敬」という表記は仏教での「愛敬の相」(愛され尊重される相)の影響(「敬」の音(オン)は呉音、キャウ、漢音、ケイ)。この表記の影響で「アイキャウ」と言われるようになるのでしょう(そう言われるようになるのは室町時代頃)。