「おきふり(置き触り)」。現代では「手を触れ」といった言い方をしますが、古代、「ふれ(触れ)」は四段活用「ふり(触り)」でした。「ふり・ふれ(触り・触れ)」は感覚的な接触感、さらにはものごとに関係があること、を表現します→「そのことにはふれない」→「ふり(触り)」「ふれ(触れ)」の項(下記※)。「おきふり(置き触り)→おくり」は、置いて触れる。「おく(置く)」という動詞には目標感・遊離感、離れる語感がある(→「おき(置き)」の項)。「おきふり(置き触り)→おくり」は、何かにそうした目標感・遊離感、離れ感をもって、そうした目標感・遊離感、離れ感が維持された状態で、触れること(関係性を保つこと)。離れて触れる、離れて関係性を維持する、のような表現です。たとえばAが人を都まで遊離感をもって触れた場合、Aは人を都まで「置き触る→送る」。あるいはAがBをもってCに遊離感・離れ感をもって触れた場合、AはBをCに「置き触る→贈る」。「日をおくる」という表現がありますが、たとえば、AがBを「都までおくる」場合、AはBと都まで同行しますが、Aの移動動態はBのそれと一体化はしておらず、それと遊離しそれに添えられたものになっています。「日をおくる」場合、自己が空間移動するのではなく、時間経過が経過移動となり、その経過移動に自己の移動として一体化しない遊離感がある。
「吾妹子(わぎもこ)が吾を送ると白たへの袖ひづまでに泣きし思ほゆ」(万2518)。
「天皇、大(おおき)に喜びて、播磨国(はりまのくに)の水田(た)百町(ももところ)を皇太子に施(おく)りたまふ」(『日本書紀』)。
※ この「H音の感覚感」とは、環境との交感、原因に自己確認なく(原因が自己という確認なく)起こる交感、であり、それが「ふれ(触れ)」の「ふ」でもあり(感覚的経験経過でもあり)、何もない状態が、なにか有る、という状態になる発生感でもあり「ふ(生)」の「ふ」でもあるということです。