◎「うんざり」
「うんじはらり(倦じはらり)」。「うんじ(倦じ)」にかんしてはその項。この場合の「はらり」(その項)は涙がこぼれること。倦(う)みはて、こんなことをいつまで続けなければならないのだろうと思うと情けなく涙がにじむ、という表現。全的に極度に倦(う)みはてている。ある経験をし、こんなことを続けなければならないのか…、という将来的な思いに関しても言う。
「色々と考へてる所へ内から呼によこしたから、又お座敷かとうんざりしたが…」(「人情本」『春色恋の染分髪』)。
「顔ににぬうしろすがたは千両どうぐなり。うしろびつくり、前うんざりといふなるべし」(「評判記」『あづまの花軸』)。
◎「うんじ(倦じ)」(動詞)
「ウンジ(吽字)」の動詞化。「吽(ゴウ)」は牛が鳴いたり犬が争い吠えたりすることを意味しますが、サンスクリット語の「ウン」(下記※)を表現する字としても用いられます(仏教の影響により、日本では、「ウン」を表す字たる「吽」の方が良く知られます。というか、事実上、それしか知られない。もっとも、中華人民共和国でもこの字は、事実上、「ホォン」(サンスクリット語の「ウン」の意)としか読まれないかもしれません)。この字は「口」と「牛」を書き、「ウン」は牛の鳴き声を思わせるのでこの字を書きます。すなわち「吽」の字は「ウン」とも読む。「ウンジ(吽字)」の動詞化とは、その動詞が「吽(ウン)」の字のような動態を表現した、ということ。「吽(ウン)」の字のような動態とは、前記のようにこの字は「口」「牛」と書き、牛の口のような動態、ということです。すなわち、うつむくように、呆然としたように、口をもぐもぐと動かし延々と食べたものを反芻し続けているあの状態です。それは涎(よだれ)を垂らし続けたりもしている。ぼんやりとしながら涎(よだれ)を垂らしただ口がもぐもぐと動いているような状態…そんな状態になっていることが「うんじ」。それは現実世界に働きかける活き活きとした活動力は感じられず、世の中に倦み果て嫌になっているようでもある。この動詞は語尾の「じ」が動詞「し(為)」のように作用し、活用はサ行変格活用になります。語源も「うみし(倦み為)」と言われることが多い。しかし、「うんじ」は、何かに活性化していた状態が不活性化するのではなく、ただ不活性化する。後世の表現で言えば、「うんざりし」がこれに似ています。
「上達部(かんだちめ)聞きて………倦(う)んじて皆帰りぬ」(『竹取物語』:かぐや姫に、添うための条件として、とてもできそうにないことを言われた上達部たちが「倦(う)んじて」帰っていったという)。
「世の中をうむじて筑紫へくだりける人」((大和物語))。
※ この「ウン」は口を閉じた際の口音(コウオン)を表現します。いわゆる「阿吽(अहूँ:アウン)の呼吸」の「ウン」であり、悉曇(シッタン)学ではこの「阿(ア)」から「吽(ウン)」までの間にあらゆる語音が(さらには、密教的には万有の始まりから終焉までが)あるとする。日本の「あ」から「ん」までの五十音表は悉曇学の影響を受けつつ江戸時代に僧・契沖により整理されたものです(語音を母音と子音に分けて考える考え自体は古く、遅くとも平安時代最初期にはある。僧・契沖は仮名遣いの整理も行っている→『和字正濫鈔(ワジシャウランセウ)』)。「悉曇(シッタン)学」は要するにサンスクリット語学。「シッタン」はサンスクリット語の音(オン)ですが、完成したもの・成就したもの、を意味し、サンスクリット語のある書体の名。