◎「うれへ(憂へ)」(動詞)

「うるいえへ(うる癒え経)」。「うる」はその項参照(8月3日など)。これが納得できないこと、不満、を意味しました。「うるいえ(うる癒え)」はその「いえ(癒え)」ですが、「うるいえへ(うる癒え経)→うれへ」、その納得できないことから解放され平安安堵を得ること、を経る、経過する、とはどういうことかというと、その納得できないことを何者かに、とりわけ、世を動かしうる権威のありそうな何者かに、こういうことがある、と告発するのです。つまり「うれへ(憂へ)」は「うったへ・うるたへ(訴え)」(その項・6月7日)に意味が似ています。「京兆(みさとつかさ)に出でてうれへむ」(万3859:「京兆(みさとつかさ)」は、要するに、京の行政や警察・司法を司(つかさど)る役所(下記※))。「今は昔、多気の大夫といふ者の常陸より上りて愁訴(うれへ)する頃…」(『宇治拾遺物語』:訴えのために上京して来ていたころ…)。しかし、裁判所や警察その他の役所に告発することだけを意味するわけではなく、神にも「うれへ」、友人に事情を言い納得できないことを訴えたり、悩んでいることや心配事、悲しんでいること嘆いていることを人に言ったりすることも意味します。「あはれとや思ひもするとたなばたに身のなげきをもうれへつるかな」(『右京大夫集』)。「世をうれへ」。

 

※ 「万3859」の原文「将訴」は「うるたへむ」とも読まれますが「うれへむ」でしょう。「うるたへ」というほどの深刻なことは言っていません。「京兆」は「みさとつかさ」とは思いますが、なぜ「兆(テウ)」を「つかさ」と読むのでしょうか。「朝廷」の「朝(テウ)」でしょうか。「兆」が、多くの人々、一般民衆、そのための役所、という意味でしょうか。

 

◎「うれひ(憂ひ)」(動詞)

「うれへいひ(憂へ言ひ)」。「うれへ(憂へ)」を言うこと。「うれへ(憂へ)」はその項(上記)参照。この動詞は上二段活用です。ただし、「うれへて云」とも「うれひて云」とも言われ、心情が表されていることが強調されていれば「うれへ」になり、心情が強調されていれば「うれひ」になるような状態です。「愁(うれ)ひつつ岡にのぼれば花いばら」(「俳句」)。「孔子の云く、君子は人の己(おのれ)を知らざるを憂ひず、人を知らざるを憂ふと」(『学問のすすめ』)。