「うふら(う経ら)」。「うへ(上):う経」の場合、「う」は、「浮く」「売る」「生む」に共通する、目標感のある「お」にU音による遊離した動態感が生じ動的遊離感を表現する「う」であり、これが発生感、それゆえの存在感になりますが、「うへ(上)」の場合、その「へ(経)」は存在感の現状経過を表現し、それはその存在感があることそれなわけですが、「うふ(う経)」の場合、「へ(経)」で表現される経過に遊離感のある動態感が生じ、これが経過の発生感、それゆえの経過の独律した存在感となり、「う」の存在感経過の独律した存在感、その経過があることによりそれ(「う」の存在感)が存在すること、時間的空間的その存在経過、が表現され、「ら」はその情況、その情況にあること、を表現する。つまり、「うふら(う経ら)→うら」が、存在を生じさせているその経過、その存在の中枢的奥、のような意味になる。「天地(あめつち)のそこひのうらに…」(万3750:「そこひ」は「そこおひ(底追ひ)」、底(そこ:根底)を追求したその域)。人の「うら」は、元来の意味は、それがあるからその人の「うへ(上:表面。現れ)」があるその人の内的経過。これは「こころ(心)」や「おもひ(思ひ)」のような意味になります。「うらもなくわが行く道に青柳(あをやぎ)の(芽が)張りて立てれば…」(万3443)。「うらごひ(裏恋)」も心の奥底で発動する恋。これが、「うら(裏)」が「おもて(表)」と対で言われるようになると、人の裏(うら)は、表(おもて)とはまた異なった人の内面、のような意味になります。古くは「うら(裏)」は「うへ(上)」と対で言われました。「直衣(なほし)のうらうへひとしう」(『源氏物語』)。これがやがて「うら(裏)」は「おもて(表)」と、「うへ(上)」は「した(下)」と、対で言われるようになります。「うら・うへ」が「うら・おもて」「うへ・した」になるわけです。
それがあるからこそその「う」は発生しその存在感はあるわけですが、それが具体的にどのようなことなのかは不明であり、「うら」により、何かあるはずなのだが分からないその思い(発生の経過感はあるのだがそれが何なのか、どのようなことなのか明瞭にならない)が表現されることもあります。「うらがなし(うら悲し)」、「うらぐはし(うら精し)」、「うらさびし(うら寂し)」、「うら恋し我が背の君は」(万4010)。