「うめいはひ(埋め祝ひ)」。「うめ(埋め)」は存在化すること・させること→「うめ(埋め)」の項(この「うめ(埋め)」の「う」は「ゐ(居)」のU音化であり、「うめ(埋め)」は他動表現も自動表現もあります)。「うばひ(奪ひ)」の場合、その存在化は何かに起こる。「いはひ(祝ひ)」は人間には無い、人智の及ばない、経験経過があること、そうした情況になること、を表現します→「いはひ(祝ひ):斎(ゆ)い這(は)ひ」の項。つまり、「うめいはひ(埋め祝ひ) →うばひ」は、何かに何かが存在化すること・何かを存在化させること、が人智の及ばない、経験経過情況として現れていることを表現します。AがBに始めから存在しBが始めからAだったわけではないではない。しかし、AがBに存在することが・BがAになることが、人智の及ばない(あるいは、自分の智のおよばない)、経験経過情況として現れています。
AがBに存在しBがAになればBは喪失します。「我、兄王(このかみ)の志(みこころざし)を奪(うば)ふべからざることを知れり」(『日本書紀』:兄王の志を自分の志にしてしまうのではない。兄王の志を喪失させ、気持ちを変えさせる)。「日日来りて衣裳を褫(うば)ひ裸体(はだか)となし…」(『暴夜物語(あらびやものがたり)』:喪失させた)。「心を奪ふ」。「目を奪ふ光景」。「命を奪ふ」。
存在化したAに視点が置かれればAはBを喪失させ自己を存在化させた。「雪の色をうばひて咲ける梅の花」(万850)。
Bを喪失させ自己(A)を存在化させることは、BもAもどちらも同じ何か(○)である場合、AとB、どちらが○であるのか、根元的な分裂的闘争関係に入ります。「謂(おも)ふに、當(まさ)に國(くに)を奪(うば)はむとする志(こころざし)有(あ)りてか」(『日本書紀』:国(くに)を喪失させ国(くに)を存在化させる)。「村の童女、井に来りて水を汲まむとして宿れる家の童女の井(つるべ)を奪(うば)ふ」(『日本霊異記』)。
帰属させる動態を明瞭にする場合「うばひとり(奪ひ取り)」と言います。
この動詞は音(オン)として「うむはひ」のような音になり、「むばひ」のような音にもなりそのようにも書かれ、「む」が無音化し、あるいは書かれず、単に「ばひ」とも書かれます。「京童(わらはべ)、くるまむばひたり(車奪ひたり)」(『宇津保物語』:むばひ)。「『いと心づきなし』とおぼせどありしやうにも奪(ば)ひ給はず」(『源氏物語』:ばひ)。「此頸(くび)ヲバイトリテ(~を奪いとりて)、勧賞ニ行ワレバヤト思ケレバ、此頸(くび)ヲバイケリ(~を奪いけり)」(『平家物語』:ここでは、バイ、と書かれています)。