語幹になっているこの「う」は「う(得)」や「うけ(受け)」にある帰属の自己認容(→「え(得)」の項)であり、「うち(打ち)」はそれが思念的内容の確認として(この思念性は活用語尾のT音の効果です)、つまり思念的確認として、現れています。帰属の自己認容が思念的に確認されるとは、何かを得たことが(客観的に何かがあることが)、何かが現れ現実化していることが、表現されるということです。この動詞は現象が(自分に)帰属し認容されたことの思念的確認をする動詞であり、それは現象の現れであり、現実化であり、現象現実化を広範に表現します。対象に勢いをもって接触することも対象に現実感となる影響を与えることです。「笹葉(ささば)に うつや霰(あられ)の…」(『古事記』歌謡80:これは自動表現です)。その他、「田をうつ(耕す)」、「仇(かたき)をうつ」、「点をうつ」、「博打をうつ」、「水をうつ」、「銃をうつ」、「蕎麦(そば)をうつ」……。感銘を与えることも言います。「心をうつ」。芝居を「うつ」場合も芝居に現実感を生じさせること。すなわち現実に芝居を現すこと。この「うち(打ち)」は動態の現実感を表現することにより動態の強調も表現します。「うち明け」、「うち棄て」、「うち渡し」、「うち遣り」…。自動表現でも現れます。「(波が)うち寄せ」、「(人が田子の浦から)うち出(い)で」、「(氷や心が)うち溶(と)け・解(と)け」、「うち見る」、「うち驚き」(「おどろき」は、目を覚ます、という意味もあります)…。
※ この、「うち(打ち)」による帰属の自己認容の思念的確認は常に「何か」に対しなされ、この動詞は本質的に外渉的(外的対象・環境との係わりという動態が表現される、ということ)であり、この外渉的な動詞の活用語尾がE音化しさらに外渉的動態が生じると受け身になるということも記憶しておいてください→「うて(打て)」の項。