「うきしまり(浮き締り)」の連濁。これは『古事記』『日本書紀』・天孫降臨の部分にある表現ですが、『古事記』の原文は「宇岐士摩理」、『日本書紀』の原文は「浮渚在…(細字で書かれる読み)羽企爾磨梨」(「渚」の字は洲のような小さな島を意味する)。「うきしまり(浮き締り)」は、「うき(浮)」は、何もなかったところから、浮き出るように現れること(4月20日・昨日)。「しまり(締り)」は、「しまり(締まり)」は一般的には圧縮・凝縮状態になることを意味しますが、ここでは、存在感として、とりわけ視覚的に、そうなること、すなわち、茫漠と、ぼんやりとしていたそれが確固たる現れとなったこと。つまり、「うきしまり(浮き締り)→うきじまり」は、天孫が現れたのです(下記※)。『日本書紀』の「渚」の字は「しま→島」の連想によるものでしょう。『日本書紀』の続く部分に「たひらにたたして」とありますが、これは、歩いたりするわけではなく、平地に立っているような状態のまま、ということでしょう。『古事記』の続く部分は「そりたたして」です。「立たし」は「立ち」の尊敬表現ですが、この「そり」は「反り」ではありません。これは「そり(隆り)」。この動詞は、夢や、理想や、そんなものの中にいるような状態になっていることを表現します→「そり(隆り)」の項。
※ 「すめろき(天皇)」とは時間であり、天孫の降臨とは時間の降臨です。この、時間の降臨は光の降臨を意味します。なぜ光の降臨は時間の降臨となるのかと言うと、時間の降臨と現実化(「すめら」が顕(あらは)となること・天皇の即位)は光の降臨を保障するからです。時間の降臨とその現実化(即位)がなぜ光の降臨を保障するのかと言うと、時間とは過去と今の関係でありそれは事象の因果だからです。それ(時間の即位)によりそれ(時間)は顕(あらは)となり因果の真性、事象の真性が保障されます。因果は光となり真理が現れます。それが光の降臨であり、それが光たる人と光たる世界・宇宙との融合に真性を保障します。その真性の保障には宇宙の創造や神をどう認識するかも含まれます。つまり天皇(すめらみこと)は宇宙や神の真性を保障します。
つまり、「天孫降臨」とは確かな光の現れであり、遠い遠い昔、ある人にそんなことが起こり、それが「浮き、締(しま)り」と素朴な表現がなされたのです。そしてその確かな光の出現たる「うき、しまり」は現代社会でも、いつでも誰にでも起こり得ることです。「天孫降臨」はいつでも誰にでも起こります。特に、日本人の場合、言語の特性としてそうなります。