「いえあし(癒え悪し)」。「え(ye)あ」が「や」の音になっています。緊張や興奮を伴いそうあることに不快や不満を感じる状態、そうあることに嫌だと生理的に感じられたり社会的に思われたりする状態にあり、それがなくなり安らかに安堵した状態になること(「いえ(癒え)」ること)が「あしきこと(悪しきこと)」・虚無・空虚感、不活性感、無意味・無価値感を基底に作用する不安や否定感、さらには嫌悪感を感じさせることであること。簡単に言えば、「いえ(癒え)」(安堵、安らぎ、満足)が「あしきこと(悪しきこと)」になっている、と表現しています。どういうことかと言うと、その「いえ(癒え)」は人としての「しひ(廃ひ)」(機能不全化・機能廃化)であり、廃化だということです。たとえば、原始時代と言ってもよいような時代、乳幼児や子供の身体的健全さの保障にも危険な粗略な居住施設を造り、あるいはそれさえも造らず自分の居住施設のみを造り、それで「癒え」ている場合、それは「癒え悪しく」、生活状態も貧しさが拡大する。これは居住施設を造ることだけではなく、狩猟・採取努力であれ農耕努力であれ、すべてそうです。

そのように「いやし」という語が用いられていったその現れの一つとして文書資料の時代には貧しいことが「いやし」と言われ、社会的影響力の弱い、あるいは無い、身分の低い者やことが「いやし」と言われ、「賊(あた)」を蔑(さげすみ)化する表現としても「いやし」と言われます。「賤(いや)しき賊(あた)の陋(いや)しき口を以て尊号(みな)を奉らむ」(『日本書紀』景行天皇二十七年十二月:ただしこれは或る熊襲(くまそ)の勇者が謙譲として言っています)。「葎(むぐら)はふいやしき屋戸」(万4270)。「身は(自分は)いやしながら、母なむ宮なりける」(『伊勢物語』)。

文化的発展の蓄積やその知的経験がなかったり乏しかったりすることも「いやし」と言われ平安時代の辞書には「野」や「鄙」(田舎(ゐなか))に「いやし」の読みがあります。文化的発展や知的発展が乏しいまま癒えているわけです。仏教などでもその知を少し見聞きし癒え、自分は悟りを開いたと満ち足りたりしている者は「いやしい」でしょう。道徳的にも、人や社会の思索やその歴史的に蓄積された経験的知の経験もなくただ欲と自己慰安、ただ自分が癒えることしか知らないもの・ことも「いやし」と言われ。ひどく物惜しみする吝嗇や貪欲であることも「いやしい」と言われます。「いかにいやしくもの惜しみせさせ給ふ宮とて…」(『枕草子』)。その場合、ただ自分が癒えることしか知らないことで富を蓄積した場合、その、富を蓄積することが「いやしいこと」にもなり、富を蓄積し資産を蓄えた者が「いやしい者」にもなるでしょう。つまり、古代では貧しい者が「いやしい者」、後世では富んだ者が「いやしい者」にもなります。

この「いやし」は謙譲としても言われます。「いやしき吾ゆゑ大夫(ますらを) の争ふ見れば」(万1809)。