◎「いますがり」

「いませいきがあり(坐せ息が有り)」。「せい」が「す」の音になっています。「いますかり」とも言い、その場合は助詞の「が」がない(「いまそがり」「いましがり」も清音はすべて同じ理由)。「いませ(坐せ)」は「いみはひ(斎み這ひ)」(斎みを感じさせ)の尊敬表現「いみははし(斎み這はし)→いまし(坐し)」の他動化した表現(316日)ということなのですが、「いませいきがあり(坐せ息が有り)→いますがり」は、その「いませ(坐せ)」の「Aをいませ」という用い方(「いまし(坐し)」の項(316日):「弥勒の石像を安置(ませまつ)る」)をした場合に、そのA(弥勒の石像)に息があること。すなわちそのAに生命が宿り、あるいは生命が生まれ、「いみ(忌み・斎み)」は生きた現実のものとなり、Aが特別な、現実に権威性のあるものとなることを意味します(弥勒の石像は単なる石塊ではなくなる)。つまり「Aいますがり」はAに、世の中が忌む(斎む)、特別な権威性が生まれていること・あること、を表現します。この「世の中が忌む(斎む)、特別な権威性が生まれていること・あること、を表現する」というこの点はここにある三語すべて同じです。

同じような表現に「いまそがり・いまそかり」「いましがり・いましかり」があります。「か」の濁音・清音は「いますがり」の場合と同じ理由。

 

◎「いまそがり」

「いまそがり」は、「いませうけがあり(坐せ受けが有り)」。「せう」が「そ」の音になっています。「いませうけがあり(坐せ受けが有り)」とは、「いますがり」の場合と同じようにAに「いませ(坐せ)」を行った場合、Aがそれを受け入れそれを保証した、ということ。「いませ(坐せ)」はAに受け入れられその効果は保証されたのです。奉納が問題なく納められたような状態になった。これも、「いますがり」のように、Aが特別な権威性のあるものとなることを意味します(弥勒の石像は単なる石塊ではなくなる)。つまり「Aいまそがり」もAに、世の中が忌む(斎む)、特別な権威性が生まれていること・あること、を表現します。

 

◎「いましがり」

「いましがり」は、「いませ(坐せ)」を受けたAに生命が生まれている動態をAの自動表現として「いまし(坐し)」と表現し、「いましいきがあり(坐し息があり)」。これも、事実上、「いますがり」と言っていることは同じです。つまり「Aいましがり」もAに、世の中が忌む(斎む)、特別な権威性が生まれていること・あること、を表現します。

 

つまり、「いますがり・いますかり」「いまそがり・いまそかり」「いましがり・いましかり」という表現は全て、何か(前記ではA)に「いませ(坐せ)」を行った場合の現場経験から、弥勒などの石像や木像をまつる現場経験から、それが単なる石塊や木ではなくなる現場経験から、生まれているということです。

 

「おほかたは父おとどのいますがればぞ。かくあなづり給ふ(このように馬鹿にする)」(『宇津保物語』:人々が父のおとどをいますがる)。「右大将にいますかりける(右大将でいらっしゃる)ふぢはらの(藤原の)つねゆき(常行)とまうすいますかりて」(『伊勢物語』:人々が藤原の常行を右大将としていますかる。そして、藤原の常行と申す人がいますかる)。「かの大将は、才(ザエ)もかしこくいますかり(かしこくいらっしゃる)」(『宇治拾遺物語』)。

「帝の御子、たかい子申すいまそがりけり」(『伊勢物語』)。

「これはここにいましがる神のし給ふなり」(「貫之集」)。