「いみははし(斎み這はし)」。「はひ(這ひ)」は何かが感じられること、情況的な発生感があること、それにより周囲に、環境に、何かを感じさせること。「ははし(這はし)」はその動詞「はひ(這ひ)」に尊敬の助動詞「し」がついたもの。つまり「はひ(這ひ)」の尊敬表現。古くは四段活用動詞や動詞「し(為)」の未然形に「し」がつく尊敬表現がありました。たとえば「取り」なら「取らし」(御取りになり)。「いみははし(斎み這はし)→いまし」は、「いみ(斎み)」を、斎(い)む思ひ(畏れ敬いむやみと触れてはならないような思い、慎む思い)を、御這ははせになる(御感じさせになる)、のような表現です(尊敬表現を省いて表現すれば、斎み這ひ)。これが何か(必ずしも人間とは限らない)への敬いの、それを慎む思いの、表現になります。具体的に、その何かのどういう動態を表現するかというと、その何かがただ居る・有ること、存在すること、あるいは、動くこと(行ったり、来たりすること)、を表現します。「平らけく親はいまさね」(万4408:平安に親はいてください)。「新羅へいます君」(万3587:新羅へお行きになるあなた)。「汝(な)こそは男(を)にいませば」(『古事記』歌謡6:男なので)。「如来は慈悲います」(『願経四分律』:慈悲深くいらっしゃる)。
この「いまし」が動詞連用形について尊敬を表現することがあります。「栄えいまさね」(栄えていてください)。
この「いまし」は「い」が脱落して「まし(坐し)」にもなります。「大君は千歳(ちとせ)にまさむ」(万243:永遠にいらっしゃる)。「わが背子(せこ)が国へましなば」(万3996:国へお行きになってしまったら)。
また、「いませ(坐せ)」という「いまし(坐し)」の使役形他動表現動詞もありますが、「いまし(坐し)→いみははし(斎み這はし):環境に斎(い)みを感じさせる。斎み這ひ(環境に斎(い)みを感じさせ・人に斎みを生じさせ)、の尊敬表現」の使役形他動表現は、環境に斎(い)みを感じさせることをさせ(人に斎むことを生じさせ)、ということであり、「Aは(が)いませ」(Aが人に斎(い)むことを生じさせ(の尊敬表現))はAへの敬いの表現になり(下記『三宝絵詞』)、「Aをいませ」(A(下記・石像)を(A(石像)の状態で(下記※))人に斎(い)むことを生じさせ(の尊敬表現))はAを敬い尊重していることの表現になります(下記『日本書紀』)。また、使役形他動表現は「いませ」でも「いまし」でも意味は生じます。この「いまし(坐し)」の他動表現の「いませ(坐せ)」は「いますがり」(動詞)の語源に関係します。その項で触れることになります。この「いませ(坐せ)」の意味がわからないと「いますがり」の意味はわかりません。
「天雲(あまぐも)の八重かき別(わ)きて神(かむ)下(くだ)しいませまつりし……日の皇子(みこ)」(万167)。「もしこの社いませざりせば」(『三宝絵詞』:斎み這はせずありせば)。
「仏の殿を宅の東の方に経営(つく)りて弥勒の石像を安置(ませまつ)る」(『日本書紀』:石像の状態で斎みを御這はせになりまつる)。「他国(ひとくに)に君をいませて…」(万3749)。
連用形名詞化「いまし」(いらっしゃり)は丁寧な二人称にもなります。「いましをたのみ母に違(たが)ひ…」(万3359)。
※ 助詞「を」は、たとえば「女を生きる」と言った場合、目的ではなく、状態を表現し、これは動詞が自動表現の場合そうなります(「を(助)」の項)。環境に斎(い)みを感じさせ(人に斎(い)みを生じさせ)、は、人には使役型他動ですが、神や仏の自動表現なのです。