「いひふしせし(言ひ節狭し)」。「ふし(節)」はそれとして独立的・特徴的な、存在感のあること・ものを意味します (→「思ひあたるふし」→「ふし(節)」の項)。「いひふし(言ひ節)」は、言ひたる存在感のある独立的・特徴的な、こと・もの。「せし(狭し)」は狭いこと、障碍感があることですが、その言ひたる存在感のある独立的・特徴的な、こと・ものに障碍感があるとは、言ひとなり得る特徴的状態に障碍感があることを表現します。「いひふしせし(言ひ節狭し)→いぶせし」は、言ふ節(ふし)・言っていること、に障碍感があるのではありません。言ひとなる節(ふし)・言ひとして独立的・特徴的な、存在感のあること・ものになることに障碍感があります。言ひ(言語表現)として現れる理性的容認に乏しいのです。つまり、言ひになりにくい。これが、なんとも言えない、のような表現になり、思いが鬱積し開放感がない(乏しい)状態にあることを表現し、鬱陶しさ、心情が鬱積し開放感が閉ざされてしまうような不快感も表現します。その他、言うことができない→不審だ、や、言うことができないほど恐ろしい、や、まれには、言葉にならない→ゆかしい、なども表現します。
「いぶせくもあるか妹(いも)に会はずして」(万2991)。
「母にて候者、わろき病をして死にて侍(はべ)るが…人はいぶせき事に思ひて、見て訪(とぶら)ふ者もなし」(『沙石集』:なんとも言えずいやだと思われている)。
「やがてその興つきて見にくくいぶせく覚えければ…」(『徒然草』:奇形を好んだが、やがてそれがいぶせくなったという)。
「侍(さぶらひ)ども『あはれ(義経は)侍(さぶらひ)の主かな。この殿に命を奉る事は塵(ちり)よりも惜しからじ』と申して、心を掛け奉りて候ふ。それに左右なく(それを考えず)(義経を)鎌倉中へ入れ参らせ給ひて御座候はん事いぶせく候ふ」(『義経記』・義経平家の討手に上り給ふ事:梶原景時の源頼朝への言葉。なんとも言えず嫌だ、のような表現)。
「見る目いぶせき呵責の責め、目も当てられぬ次第なり」(「浄瑠璃」)。