「いひうきあり(言ひ浮き有り)」の独律動詞化(活用が「有り」のラ行変格活用ではなく四段活用だということ)。この語は、「いぶかし(訝し)」のように、語音は古くは「いふかし」と清音と言われるわけですが、当初から濁音の「いぶかり」のような音も相当にあったのかもしれません。「いひうき(言ひ浮き)」は、他者が言ふことによって(脳に)浮かび上がるように現れ構成されるその全体のイメージであり、ものであれことであれ、その全体像です→「いぶかし(訝し)」の項(昨日)。「いひうきあり(言ひ浮き有り)」は、それがあり作用すること。その場合、「いひうきあり(言ひ浮き有り)→いぶかり」は、「言ひ浮き」たるその内容があることと、「言ひ浮き」という動態があることを意味します。前者、その内容があるという意味では、「いふかりし国のまほらをつばらかに示したまへば」(万1753:これは、話に聞いていた、のような意味になります。平安末期の辞書には「諺」に「いぶかり」の読みがあります。「諺」は世の中で言われていること、の意)。後者、「言ひ浮き」という動態があることを意味する場合は、「おほさざき(大鷦鷯)の帝(仁徳天皇)……位につきたまはで三年(みとせ)になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思(おもひ)て、よみてたてまつりける歌」(『古今集』仮名序:これは、思うところあり、のような意味になる)。
「いぶかし(訝し)」の影響もあり、「言ひ浮き」がその全体像が把握できないこと、何かがあるのだが、それが何かわからないものやこと、も意味し、「いぶかり」は、何が、なぜ、そんなもの・ことが…と首をかしげるような思いにとらわれること、不審に思うこと(これは不信感が生まれることへも発展する)、も表現します。この最後のような用い方が後世の「いぶかり」の最も一般的なものなのではないでしょうか。「お常はいよいよ不審(いぶか)り『それじゃアおまへは、連(つれ) の人達にはぐれたのかへ』」(『当世書生気質』坪内逍遥)。