「ゆいはひ(斎い這ひ)」。「ゆ」は「い」の音に交替しつつ「ゆい」は「い」の一音になった。「ゆ(斎)」は、人間には無い、人智の及ばない、経験経過があることを表現します「ゆ(斎)」の項(「ゆには(斎庭)」など)。「い」は、指示代名詞のようなそれ「い」の項(19年(去年)10月8日)。「はひ(這ひ)」は情況感覚感を表現し情況感が動態感をもって作用します「はひ(這ひ)」の項。「はひ(這ひ)」は自動表現ですが(他動表現は「はへ(延へ)」)、たとえば、「を」が状態を表現し、「旅行く君をはひ(這ひ)」と言った場合、「女を生き」が、“女”と生き(女として生き)、のような意味になるように、それは「旅行く君とはひ(這ひ)“旅行く君”と情況感が動態感をもって作用し」という意味になり、それが「旅行く君をゆいはひ(斎い這ひ)旅行く君をいはひ」となった場合、それは「“旅行く君”と人智の及ばない経験経過それが這ひ(情況感が動態感をもって作用し)」という意味になり、“旅行く君”に人智の及ばない経験経過の影響が及び“旅行く君”がそれにより力を得、守られます。それが「いはひ(祝ひ)」の原意です。そしてその守りの効果は人智の及ばない経験経過(「ゆ(斎)」)の這ひを維持する(「いはひ」を維持する)その「いはふ(祝ふ)」主体の努力によって維持されます。そうした「ゆ(斎)」の「這ひ」(「ゆ(斎)」が情況的感覚感となりその情況感が動態感をもって作用すること)を維持するために何かを「いはふ(祝ふ)」主体が歴史的、具体的に、どのようなことをすることでそれを現実化しようとしたかというと、たとえば、身をつつしむ(自分の身を飾るようなこともしない)、(ただ内心でだけでも)祈る(祈り続ける)、神意に(人智の及ばない経験経過を左右する力の主体の意に)かないそうな、何かを整え、備える(供える)、その他をします。環境それ自体を「斎(い)む」ような状態になります。「櫛(くし)も見じ家中(やなか)も掃(は)かじ草枕旅行く君をいはふと思ひて」(万4263:あなたの旅の無事を祈り髪を梳かすこともしない家の中を掃くこともしない)。「まさきくて妹(いも)がいははば沖つ波千重に立つとも障(さは)りあらめやも」(万3583:あなたがいわってくれるならどんな困難があろうと悪いことなど起こるはずがない)。この、Aを「ゆ(斎)」をもって這(ふ)、という表現はAを汚されてはならない神聖感をもって保存し、のような意味にもなります。「自(みづか)ら七才の年より后(きさき)の宣旨をかうぶり(こうむり)いわわれ参らせて、余の男子にも近づかずして、后の位にいわわれしなり」(「御伽草子」)。

この「いはひ」は、それは良きことを希(ねが)ひ行われ、その「良きこと」を口にすること、祝言(シウゲン)を述べること、も「いはひ」と言い(「大海の水底照らししづく珠(たま)斎(いは)ひてとらむ風な吹きそね」(万1319)。この歌の前に「底清みしづける珠を見まく欲(ほ)り千(ち)たびぞ告(の)りし潜(かづ)きする海人(あま)」(万1318)という歌があります。1318の「のり(告り)」が1319で「いはひ(祝ひ)」と表現されています)、その言(こと)も事(こと)も「いはひごと(祝いごと)」となり、やがて、歴史的には、そのために人が集まり、飲み、食い、楽しく過ごし、めでたさを表現することが「お祝ひ」になっていきます。『徒然草』第百七十五段に、泥酔して「祝ふべき日」にあさましいことになっている、という表現があります。鎌倉時代には「いはひごと(祝いごと)」がそんな状態になっているということです。