「いにのり(去に告り)」。この場合の「いに(去に)」は自分が彼方へ行くような状態になること。自己の存在は消去へ向かいます。「のり (告り)」は言語を普遍化すること→「のり(告り)」の項(これは言語を公(おほやけ)にする、というような意味になります)。つまり、「いにのり(去に告り)→いのり」は、自己は消去へ向かいただ言語活動のみで言語を現実化すること。古くは「神にいのり」ではなく「神をいのり」と表現しました。この「を」はもはや状態を表現するのか目的を表現するのかわからないような「を」ですが、要するに、経験経過しています(→「を(助)」の項)。
「天地(あめつし)のいづれの神を祈らばかうつくし母にまた言問はむ」(万4392:「あめつし」は「あめつち」の古代の東国方言)。
「いのり(祈り)」は常に人を生かすわけでもなく、「いのりころす(祈り殺す)」という表現もあります。「………頼朝ガムスメ久クワヅライテウセニケリ。………イマダ京ヘノボリツカヌ先ニ。ウセヌルヨシ聞ヘテ後。京ヘイレリケレバ。祈殺シテ帰リタルニテヲカシカリケリ」(『愚管抄』(建久)九年正月十一日:魂が京へ入ったから祈り殺して(魂は殺されて)帰って行ったということか)。
古くは「いのりかへ(祈り替え)」なるものもありました。たとえば病気になっている場合、誰か身代わりをたて、その人に病気が移行して病気を平癒させるそうです。これは無断で誰かを身代わりにするわけではなく、(その人が喜んでか渋々かはべつとして)誰かを身代わりに立てます。たとえば弟子が高僧の身代わりになったりする。「『法師のやまひ治(ヂ)しがたし。もし命にかかはるものあらば祈(いの)りかへん』といひけれど、代らんといふ弟子なかりしに…」(「仮名草子」:誰も身代わりにならなかったそうです)。