稲(いね)の(とりわけ、枯れた)幹(みき)を「いながら(稲幹)」と表現することは一般的にいつでもあり得ることなのですが、問題は『古事記』歌謡35第二句にある「伊那賀良(いながら)」です。これが一般に「稲幹(いながら)」と読まれているわけですが、歌の原文は「那豆岐能多能伊那賀良邇伊那賀良爾波比母登富呂布登許呂豆良(なづきのたの いながらに いながらに はひもとほろふ ところづら)」というもの。これは、伝承の間に音は変化してはいるでしょうが、「なでいきのつらの いなきあらはに いなきあらはに はひもとほろふ ところづら(撫で行きの面の い泣き『顕に…』 い泣き『顕に…』 這ひ廻ろふ 墓処面)」でしょう。一句は「でい」が「づ」になっています。二句は「きあ」が連濁し「が」になり「は」は退化しています。「いなきあらはに(い泣き『顕に…』)」は、泣き続けつつ『あらはに…(顕に…)』と言っています。これは、土を取り除いて出してやってくれ、と言っているようにも聞こえます、(もう一度)現実のものとして現れてくれ、と(死者に)言っているようにも聞こえます。「はひもとほろふ(這ひ廻ろふ)」は同じところを這ひをめぐるような状態になること。「い泣き『顕に…』 這ひ廻(もとほ)ろふ」は、泣きながら『顕に…』と嘆きつつ這ひ廻(もとほ)ろふ、ということ。五句の「ところづら(墓処面)」は人を埋葬したその地の表面。「ところ(所・処)」という言葉は原意的には墓処、正確に言えば霊の独占域のような地点域、を表現します。この歌謡35は倭建命(やまとたけるのみこと)が遠征中に死去した際、后やその御子などがその地へ行き歌ったとされるものですが、歌全体の構成は「なづきのたの→ところづら」ということであり、その間に「いながらに いながらに はひもとほろふ」が入っています。歌意は、遺された者が泣きながら埋葬された大地を繰り返し撫で『あらはに…(顕に…)』と言っているものです。こうした場面が古代では現実にあったのでしょう。
この歌に関しては、『古事記』に、この歌は、后や御子たちが「なづき田(だ)」に匍(は)ひ廻(もとほり)て歌った歌、と、歌の背景説明めいたことが書かれているわけですが、これは、歌意がわからなくなった時代に、歌にある「なづきのたの」という表現に影響されたものでしょう。
また、この歌は一般に、泥田(なづきだ:足に泥が泥(なづ)むような泥田らしい)の稲幹(いながら)に這い絡んでいる「ところづら」という蔓(つる)性の植物、という解釈がなされていますが、これは問題外でしょう。異様なだけで、意味不明です。