◎「いとなみ(営み)」(動詞)

「いつをなみ(『'常・普段'を…』無み)」。「いつ(何時・常)」はその項(1月6日)。ここでの「いつ」は「常・普段」の意。「何時」の意ではありません。『いつを…('常・普段'を…)」は、「いつ(常・普段)」を思っていること、「いつ(常の、日常的なありきたりな普段の状態)」を、と(願うように)それを思ふ状態になっていること、を表現しています。「なみ(無み)」は「なし(無し)」の語幹「な」による動詞であり、無い状態になること。「潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み」(万919:潟がなくなり)のように、「み」による形容詞語幹の動態化がありますが、それがここで動詞となっています。

「いつをなみ(『'常・普段'を…』無み)」、「『いつを(常・普段を)』が無くなっている」、とは「いつ(常の、日常的なありきたりな普段の状態)」を、と(願うように)それを思ふことがなくなっているということであり、それは特別な何かに専念し専心していることを意味します。それはなすべきことに忠実になりそれに励み専念することを意味します。「いとなみ思ふ」(そのために準備に専心したりし、何かを専心的に思う)、「いとなみかしづく」(あれこれとさまざまなこともし専心的にかしづく)といった用い方も多い。「いとなみののしる」は、専心して人を罵(ののし)っているわけではなく、複数の人々が何かの準備などに専心し声をあげて連絡し合ったりして騒がしい状態になること。

何に「いとなむ」(専心する)動態になっているのかは叙述から知られるわけですが、この動詞はたとえば「畑を作り日夜いとなみ」(畑のことに専心した)といった用い方がなされ、Aをいとなみ、といった用い方は当初はされていなかったかもしれません。また、やがて仏教の「お勤め」(仏教者としてなすべきこと。読経など)も「いとなみ」と言われ、日々なすべき努(つと)めたる生業・仕事も「いとなみ」と言い「製菓業をいとなみ」、運命的本能的に(自然の摂理に忠実に従って)なされることも「いとなみ」と言います「生命のいとなみ」(生命が生命活動自体に専心する)、「自然のいとなみ」。

「晦日(つごもり)になりぬれば世の中騒がしういとなむ頃なるに」(『栄花物語』)。

「食ひ物、下人どもにいとなませず夫婦自らして召させけり」(『宇治拾遺物語』)。

 

◎「いとなし(暇無し)」(形容詞ク活用)

「いつをなし(『('常・普段' を』無し)」。「いつを('常・普段'を)」に関しては「いとなみ(営み)」の項。その「いつを('常・普段'を)」が無いこと。忠実に、なすべきことに専念しているような状態であることを表現します。常に、絶えることなく、何かに専心しているような状態です。「いとまなし(暇無し)」にも意味は似ています。「公事(おほやけのわざ)いとなし)」(『日本書紀』推古天皇十二年四月・十七条の憲法の八)。「ひぐらしの声もいとなく...」(『後撰和歌集』)。