◎「いち(市)」

「いつゐ(常居)」。「いつ」という語は「不定時(何時)」(「いつ来るの?」)と「常・普段」(「いつもそうだ」)を意味しますが、ここでは、不定時(何時)ではなく、常・普段を意味する「いつ」です。「いつゐ(常居)」は、売り手が、買い手を求めて動き回るのではなく、常に同じ所にいること。そこで買い手を待ちます。売り手のそうした売り方、そして売り手が常に居ること、居るそこ、それが「いつゐいち(市)」。 ここで「売り手」「買い手」と言っていますが、当初は貨幣を媒介にするわけではなく、物と物の直接交換です。ここで「あきなひ(商ひ)」が行われるわけですが、「あきなひ(商ひ)」の語源は2018年(去年)12月7日。「西の市(いち)にただひとり出(い)でて眼(め)並(なら)べず買ひにし絹(きぬ)の商(あき)じこりかも」(万1264:「眼(め)並(なら)べず」は、一つ一つ良く確認することをせず、ということでしょう。「商(あき)じこり」の「しこり」は「為懲り」。「商(あき)じこり」は商(あきなひ)で苦痛的打撃を受けること。つまり、よく見ないで買って失敗しちまったよ、という歌)。

『古事記』歌謡101にある「いちのつかさ」の「いち」は極限へ行きつくことを表現する動詞「いつ」(「いたり(至り)」の項・12月19日)の連用形でしょう(「いち(市)」ではないということ)。「つかさ」は「つき(調):税」の嵩(かさ:量)であり、「いちのつかさ」は、限界的に豊富な、の意(人々はそんなにも大君(おほきみ)のために尽くしています、ということ。この『古事記』歌謡101は怒った大君をなだめ和(なご)ませている歌)。

 

◎「いち」

「いたり(至り)」で触れましたが(12月19日)、進行感を表現する「い」による「いつ」という動詞があったと思われます。この「いち」はその連用形ですが、進行に完成感のある、不完全感を排した、突出感を表現します。「いちはやく(いち早く)」。「いちじるし(著し):その「いち」と形容詞「しるし(著し)」」。古語には「いちしろし(著し)」などもあります。「いちはやび(いち早び)」という表現なども「祝詞(のりと)」にあるのですが、これは一般性はないでしょう。「イチヤク(一躍)」などの「イチ」は中国語「一」の音(オン)です(「一躍有名になる」)。