◎「いただき()

「いたでさき(甚出先)」。「いた ()」は12月16日。「いたでさき(甚出先)→いただき」は、甚(はなは)(極度に進行し)出ている、先、の意。これは山に関して言われたものでしょう。山頂部分です。最も高い部分であり、人間の頭部頂上を言ったりもします。「ただいただきばかりをそぎ、五戒ばかりを受けさせ奉る」(『源氏物語』:頭部頂上の毛だけを剃った。「五戒」は在家の人が守る五種の戒め)

 

◎「いただき(頂き・戴き)(動詞)

「いつはだはき(稜威肌帯き)」。「いつ(稜威)」は、そこから何かが進行している(言語主体は時空的に「射られ」の状態になる)主体を表現します。すなわち、(神聖な)権威、です(「いつ(稜威)」の項でそのうち触れることになります)。「はき(帯き)」は身におびること。「いつはだはき(稜威肌帯き)→いただき」は、何かによりその稜威(いつ)を肌に帯びること。神聖さを感じる力や権威を感じさせる何かを身に帯びること。「勅旨(おほみこと)いただき持ちて」(万894)。これにより、「(仏法を受け、罪は滅び、その力で(蛇になった)身が人に生まれる功徳が近くなり)いよいよ悦(よろこ)びをいただき」(『宇治拾遺物語』)、といった表現もなされ、「いただく」が自分自身の力やそれゆえの利益になる何かを与えられること((もら)ふこと)も意味するようになり、「稜威(いつ)」の源たる何かへの敬いの念の影響とともに、「いただく」が「もらふ」の謙譲表現と言われるようになります。しかし、厳密に言えば、これは謙譲表現ではなく、受けた対象に対する敬いと悦(よろこ)びの表現です。後世では食事をとることも「いただく」と言いますが、原意的には、「くふ(食ふ)」は食物を体内に入れることを意味し、「たべる(食べる)」は何者かが飲食物(昔は酒も)を現(あらは)してくれそれを我が身のものとすることを意味し(語源は「たまへ(賜へ))、「いただく」は、その食物としてある人智・人力の及ばない力のようなものを身に帯びることを意味します。つまり、食事前の「いただきます」はそうした人智・人力の及ばない力のようなものを身に帯びますと言っているのであって、「もらふ(貰ふ)」を謙譲表現しているわけではありません。