「いつや」。「いつ」に関しては、進行を表現する「い」を語幹とし思念的な「つ」を活用語尾とする、「いたり(至り)」や「いと(甚)」なども生じさせている、「いつ」という動詞があったものと思われます。「いた(甚)」はそれによる「いつや」。「や」は詠嘆。進行が極限・限界・究極まで行きついていることを詠嘆します。「いた泣かば人知りぬべし」(『古事記』歌謡83:極限まで、気がすむほどに、泣いたら人が知る)。「いたもすべなし」(万3785:もうまったくどうしようもない)。これは「いた(痛)」とは別語です。
「いたし(痛し)」の語幹。語幹だけが独立で言われることもあります。「ああ痛(いた)ああ痛(いた)ああ痛(いた)。胸をしたたか打った」 (「狂言」)。
「いた(甚)」の形容表現。程度が甚だしく極限的であることの表明。「水穂の国はいたくさやぎてありなり」(『古事記』)。
この「いたし」が、(人々が望むようなことの)望み得る、行き得る、極限、のような意味で言われることもあります。「かの国のさきの守(かみ)新発意(シボチ:出家して間もない者)の娘かしづきたる家、いといたしかし」(『源氏物語』:非常にたいしたものです、のような意。「かし」は言っていることの強調)。
動詞連用形についてその動態が極限的であることも表現します。「けむりいたし(煙り甚し)→けむたし・けむたい」。「めでいたし(愛で甚し)→めだたし・めでたい」。
この最後の用法は、「見たい」「行きたい」などの、願望を表現する「~たし・~たい」とは別の表現です。
「いとはやし(『い』と早し)」。「とはやし」が「たし」になっています。「い(『い』)」は、思いや心情によるものも含め、体が、息がつまるような状態になった際に発する擬声。形容詞「はやし(早し・逸し)」は効果的であること、結果が驚くべきものであったり意外なものであったりすることを表現します(→「はやし(早し・逸し)」の項(そのうち触れます))。息がつまるような状態になる意外なこととは、それから解放され安堵・安らかさを願望する状態であり、そうした状態が肉体的な神経刺激や病変によっている場合もあれば、心情的な思いによっている場合もあります。
「頭が痛い」は病変によるもの。「いとのきて(とびぬけて)いたき傷には」(万897)。「『いと胸いたきわざかな…』」(『蜻蛉日記』)。
動詞連用形についてその動態に息がつまるような、うしろめたいような、心情をいだいていることも表現します。「「さてもいかにおぼしたることありてかはと思う給へればいまはあまえいたくてまかりかへらんこともかたかるべき心ちしける」などこまかにかきて… 」(『蜻蛉日記』:「甘えいたし」ということ)。「うもれいたし(埋もれいたし)」という表現もあります。(たとえば知り合いもなく話し相手もなく)心情が沈み込んだような状態になること。
この最後の用法も、「見たい」「行きたい」などの、願望を表現する「~たし・~たい」とは別の表現です。