「いとは(いと端)」。「い」は進行感・持続感を表現します。「と」は助詞。思念的に何かが確認されています(こういう助詞「と」の用い方は非常に古いものでしょうけれど「おとな(大人)」という語の要素にもなっています。また、現代でも、「ひととなり(爲人):生まれつき・天性」の「と」がそれです (「ひと(人)」という語の要素にもなっています))。「いとは(いと端)」は、「い」とある「は(端)」、「い」たる「は(端)」という意味(「ひととなり」なら「ひと(人)」たる「なり(生り)」)。「は(端)」は平面的部分域を表現します。「いとは(いと端)→いた」は、「い」とある「は(端)」、持続感のある平面状の部分域、平面状の部分域が延々と続くもの、そうした形状のもの、の意。

◎「朝(あさ)とにはい倚(よ)り立たし 夕とにはい倚(よ)り立たす 脇机(わきづき)が下(した)の 板(いた)にもが あせを」(『古事記』歌謡104)。「朝(あさ)と」の「と」は事態や情況の進行の程度を表現します(古く、そういう「と(程)」があります。これは「上代特殊仮名遣い」では甲類表記です(上記・助詞の「と」は乙類表記)。つまり、「朝と」は、朝であるその時間進行の程(ほど)、朝のとき。「夕と」は夕のそれ)。「い倚り」の「い」は持続を表現します。「より(倚り)」は身をもたせること。「立(た)たし」は「立ち」の尊敬表現。「脇机(わきづき)」は、いわゆる脇息(ケフソク)。「脇机(わきづき)が下(した)の板(いた)」とは、ようするに脇息の土台板ですね。「もが」は希求を表現します。

最後の「あせを(阿世袁)」ですが、これは、「吾(あ)背(せ)を」、でしょう。この部分は表現が倒置しており、「吾(あ)背(せ)を板(いた)にもが…」、私が背を板だったら…(背の状態で板だったら。「を」は状態を表現します。目的ではありません)、私の背が脇息の土台板だったら…(大君(おほきみ)を息(やす)ませてさしあげられるのに)、ということです。この「あせを」は、一般に、囃詞(はやしことば)と言われていますが、「吾兄を」とするのも(大君に向かって歌っているものとして)不自然ですし、囃詞としては意味不明な奇妙なものでしょう。