さらにこれは「いしたふや あまはせづかひ ことのかたりごとも こをば」と続きます。この「ことの~」という表現は『古事記』歌謡2・3だけではなく、4・5・100・101・102にもあります。
「ことのかたりごとも こをば」は「ことのかたりごとも こゑふむま(言(事)の語りごとも 声踏む間)」でしょう。「ゑふ(wehu)」が、とりわけ、前音の母音にひかれて、「を(wo)」と表記される音になる可能性は十分にあります。「ことのかたりごとも こゑふむま(言(事)の語りごとも 声踏む間)」は、ことを語るというその語ることも声によるその時間的・空間的域(間(ま))のこと(儚(はかな)い)、ということであり、その時間的・空間的「ま(間)」は生きただろうか、私の声は生きただろうか、届いただろうか、ということです。遠い古代に、そんな諺(ことわざ)めいた慣用的な言い方があったのかも知れません(もちろん、文字の無い時代に)。
つまり「いしたふや あまはせづかひ ことのかたりごとも こをば」は、「いひしとあふや あまはせついきかひ ことのかたりごとも こゑふむま (言ひしと合ふや 天馳せつ行き交ひ 言(事)の語りごとも 声踏む間)」、(言葉が)天を行き交ひ、私の思いは伝わるだろうか、私の声は生きただろうか(届いただろうか)、ということ。