「いけゐ(生け居)」。「けゐ」が「く」になっています。「いけ(生け)」は「いき(生き)」の客観的対象を主体とした自動表現。「いき(生き)」の他動表現「いけ(活け)」ではありません。「いけゐ(生け居) →いく」は、生きて存在している、生きている、の意。「いくたち(生太刀)」「いくむすひ(生産霊)」など。
・「其(そ)の汝(いまし)が持てるいくたち(生太刀)いくゆみや(生弓矢)もちて…」(『古事記』:この太刀や弓矢は「スサノヲノミコト」のもとにあったものであり(この一文は「オホクニヌシノミコト」と「スセリビメ」の部分にあるもの)、「いく(生)」は現実に(つまり、人の世に)生きている、という意味)。
・「大御巫(おほみかむなぎ)の辭(こと)竟(を)へまつる皇神等(すめかみたち)の前(まへ)に白(まを)さく、神魂(かむむすひ)・高御魂(たかみむすひ)・生(い)く魂(むすひ)・足(た)る魂(すひ)………と御名(みな)は白(まを)して、辭(こと)竟(を)へまつらば…」(『祝詞』「祈年(としごひ)の祭」:この「いく(生)」も生き生きとした現実感を表現していますが、「辭(こと)竟(を)へ」「御名(みな)は白(まを)して」と言いながら直接に「御名(みな)」を口に出すことは全くしていません。それさえもはばかられること、ということです)。※「むすひ(産霊)」は言語表現をすることさえはばかられるような尊い何かへの尊称→「むすひ(産霊)」の項。
・「いくゐ(生井)」という言葉も『祝詞』「祈年(としごひ)の祭」にあります。これは「井」と書かれていますが、この字は物を組む象形として用いられているもので、(水を汲む)井戸を意味するわけではないでしょう。そしてこの「ゐ」は「ゆひ(結ひ)」。ものごとの構成・組み。それが、死んだ生命のないものではなく、生きた、生命のあるものであることが「いくゆひ(生結ひ)→いくゐ」。