「あり(有り)」は動態が時間的に恒常的・一般的であること、そのまま続くこと、永続することを意味します。「あり通ひ」などのそれです(→「あり(有り・在り)」の項)。「こせ」は希求が果たされることを表現します→『音語源』「こせ(動・助動)」の項参照(長くなるのでここでは詳しく書きませんが、この、希求が果たされることを表現する「こせ(動・助動)」の語源はちょっと複雑です。「こせ(動・助動)」を見た後「こそ」 (「継ぎて見えこそ」(万807)と言ったり神社などで「安くありこそ」と祈ったりするあの「こそ」)を見ることになります。さらには「をへ(終へ)」も。結論だけ言っておけば、この「こせ」は「こそをへ(『こそ』終へ)」)。その「こせ」で「ありこせぬかも」といった表現もなされますが、「ぬ」は完了の助動詞。否定ではありません。「こせぬ」は希求が果たされた状態であること。現代で「こせぬ」と言えば「越せぬ(越せない)」ですが、ここではそういう意味ではありません。「ありこせぬ」はそれが時空一般的になり永続すること。すなわち、「ありこせぬ」は、永続的に希求のままであること、永続的に望み通りであることを意味します。「かも」は詠嘆(「そうかも知れない」などという場合の「かも」ではありません)。「千年(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも」(万1025)。
ちなみに「こせ(動・助動)」に(動・助動)と書かれているのは、これを動詞とする国語学者もいれば助動詞とする国語学者もいるからです。