「あき(飽き)」の「あ」のような、飽和的な、それゆえに虚無的な、「あ」による「あみ(余み)」という動詞があったと思われます。その語尾がA音化・情況化しそれにS音の動感が働くことにより、「すみ(澄み)」→「すまし(澄まし)」のように、他動表現が生じました。それが「あまし(余し)」。意味は、何かを、「あみ(余み)」の、虚無感のある飽和的な状態に、すること。虚無感により全的な完成感は破綻しています。

動詞「あみ(余み)」に関しては、『万葉集』歌番900にある「きるみなみ(伎留身奈美)」は「きるみにあみ(着る身に余み)」でしょう。この部分は一般には「着る身無み」(着る身が無いので(無いと思い)、着る身を無いと見)と解されています。しかし、(子の)着る身が無いので(着る身を無いと見)ダメにされ(無駄にされ:腐(くた)し)棄てられているだろう絹錦、という表現は不自然に思われます。むしろ、(富人の子の)着る身に余りダメにされ棄てられているだろう絹錦、という表現の方が自然です。この歌は「富人(とみびと)の家の子等(こども)のきるみなみ腐(くた)し棄(す)つらむ絹綿らはも」というものです。

自動表現は「あまり(余り)」。これは「あまし(余し)」の自動表現化。余した状態になること。

「あ」の空虚感・虚無感に関しては「あえ( 落え・熟え)」の項。『音語源』やこのブログ2018. 10.09です。