動詞の活用形に「未然形」「已然形(いぜんけい)」がありますが、これはたとえば「春ならば暖かい」と「春なれば暖かい」の「なら」と「なれ」はどう違うんだ? といったことを考えて生まれています。「未然形」は江戸時代の国語学では「将然形」と言いました。「春ならば」は、もし春なら、ということで、春になっておらず、将(まさ)に然(しか)ならむ形「将然形」や未(いま)だ然(しか)ならざる形「未然形」。「春なれば」は、春だから、ということで、已(すで)に然(しか)なる形、ということで「已然形」。そして、否定表現は未然形に「ず」がつくとか(「行かず」)、助詞の「ど」は已然形につくとか(「行けども行けども」)言われるわけです。
そのほかに(「行か」「行け」のほかに)、「行き(行きます)」「行く(今行く)」「行く時」、なんにもつかない「行け!」なんかもあるぞということで、「行き」は、体言(対象化し動かない感じの言語表現)と用言(いろんな用を果たしている感じの言語表現)のうち、用言に連なっている感じなので「連用形」。「行く」は言い終わっている感じだから「終止形」。「行くとき」の「行く」は体言に連なってる感じだから「連体形」。「行け」は命令してる感じだから「命令形」。
ちなみに、小学校の文法などでは「口語文法」や動詞の「五段活用」がいわれたりもしますが、「五段活用」のオ列の活用と言われる、たとえば「行こう」の「行こ」、は慣用的口音変化であり、動詞が活用変化(※下記)しているわけではありません(たとえば「行かむ」が「行かう」→「行こー」のようになります。この「行こ」は「未然形」と言われています。「行こう」はまだ行っていないので、未(いま)だ然(しか)らざる、ということで未然形。「~ず」や「~ない」は未然形につきますが「行こず」や「行こない」とは言いませんけどね)。ですから、ここでは動詞は「ア・イ・ウ・エ」の四段活用です。
※動詞の活用は(活用語尾の)音(オン)による語幹の動態変化であって、社会に定着して伝承もされている言い方の変化というわけではないんですよね。変化した後のそのときの言い方を「口語」、する前を「文語」と呼んでそれぞれの「文法」を書いたりしてますけど…。変化する前の言い方は実際には聞けませんね。書かれたものを読むだけです。だから「文語」か。
「已然形」は「仮定形」とも言います。この方が小学校で習う文法などではなじみ深いのかもしれません。たとえば「行けば分かる」の「行けば」はなんとなく仮定している感じがするので「行け」は「仮定形」。これは「行くならば」ということで、言ってることは「行かば」の未然形と同じようなものです。「この子は十二歳とはいえ…」などの「いえ」は仮定はしてませんけど。「行けば」に仮定の意味が生じているのは、後世、「行け」といった表現に可能の意味が生じ(→「ここから行ける」下記※)、可能を「ば」で推量的に提示すると、それがなしうるならば、ということで仮定になるということです。つまり、動詞の活用によって「行けば」などで仮定の効果が生じているわけではありません。「そうとはいえ…」の「いえ」のように、動態が経過していることを、そしてただ動態が経過していることしか、表現しない、語形の名称としては「已然形」の方がより妥当です。ですから、ここでは「仮定形」という用語は使いません。
※たとえば「行け」のように、活用語尾E音で可能を表現するようになるのは室町時代頃からでしょうけれど(江戸時代には歌舞伎の台本などにあります)、これはたとえば「行かれ」(これは古くからある平凡な可能表現)の発音省略的な変化です。「行かれ」のR音が退化しY音のようになり「行かえ→行け」になります。