「あきいりやみへ(飽き入り止み経)」。まったく不活性化し問題が終焉した動態になること。別語の「あきらめ(明らめ)」とは「あき」の意味が異なります。「明らめ」の「あき(明き)」は心(内的情況)に開放感があり、「諦め」のそれは内的に空虚化し不活性化します。同じ「あき」でも「あ」の意味が違います。一方は開放感。他方は空虚感。動的・意思的に内的に空虚化し不活性化した場合、もうそのことを考えることすらしないような状態になります。それが「あきらめ(諦め)」。この「諦め」の意味の「あきらめ」が現れるのは江戸時代以降です。つまり、それ以前の古い時代の「あきらめ」はすべて「諦め」ではなく「明らめ」。つまり、厳密には 「あきいりやみへ(飽き入り止み経)」が「あきらめ(諦め)」になったわけではなく、「あきらめ(明らめ)」の「あき」が「飽き」の意味で用いられるようになりました。
「あきらめ(明らめ)」が「あきらめ(諦め)」に変化したのは仏教の影響でしょう。仏教において真理を「あきらめ(明らめ)」ると、つまり悟ると、すべてを「あきらめ(諦め)」るということ。