本当に崩壊していたのは何?

サンポン百貨店

大惨事裏側で

 

 

 

 

  サンポン百貨店倒壊

 

 

1995年6月29日、韓国ソウルにある「三浦百貨店(サンポン)」崩壊は、500人以上が死亡し、937人が負傷するという、韓国平常時に於いての最大の災害となりました。

 

また、世界的なビルの崩壊という点に於いては、2013年、バングラデシュで「ラナプラザ工場」が倒壊するまで、近代的な建物の非故意の崩壊としては最も最悪なものでした。 

 

崩壊は、設計上の欠陥、劣悪な構造、その後の改造と建物の過負荷に起因する構造的な故障に起因しています。

 

しかし、これらの原因を、貪欲、怠慢、職業的および倫理的な責任の無視に起因すると、多くの人達が言い換えます。

 

 

  背景となった時代

 

 

1989年にオープンしたサンポン百貨店は、地上5階、地下4階建てで明るいピンク色の建物で、1日に約4000人の買い物客が訪れるほどのショッピング・スポットとして、大成功を収めました。

 

しかし、1980年代と1990年代の韓国の建設ブームは、しばしば予算をカットし、建築のルールを曲げ、入札では賄賂を支払うことを意味しました。

 

また、ソウル自体では、1988年に市内で開催されるオリンピックに向けて、サンポン百貨店の建設もそのブームの一環でした。

 

建築ブームの緩い規制の中で、サンポン百貨店はかつての埋め立て地に建てられ、その後は不十分な監視の下、施工管理と施工方法はどんどんと悪化していきました。

 

 

  重なる人災

 

 

不動産開発業者のイ・ジュンは、安全性について請負業者からの懸念を受けていたにも関わらず、苦情を言った人々を解雇しました。

 

1995年までに、エスカレーターに取って代わられた建物の部分の補強が少ない上、最上階にプールとレストランが追加され、屋根には重いエアコン・タンクまでありました。タンクは重すぎた上、屋根を横切っていたため、目に見えて構造的な負担がわかるほどでした。

 

事故当日の1995年6月29日、5階の天井にひびが入った時、その日は特に買い物客で混んでいて、報告を受けた経営陣は建物全体を閉鎖したくありませんでした。しかし、昼頃までには亀裂が広がり、4階の天井が垂れ下がったので、上層階は閉鎖されました。

 

店側は午後5時50分になって、ようやく警報を鳴らしましたが、わずか数分後には屋根が崩れ、20秒も経たないうちに、建物の5階部分が地下室に崩落し、買い物客や従業員が建物から逃げ出す時間など到底ありませんでした。

 

 

  事故のその後

 

 

救助チームの働きで、何百人もの生存者が残骸から引き出され、最後の生存者は事故から救出されたのは17日後でした。

 

当初、事故はガス漏れやテロリズムのせいにされていましたが、調査により、建物はひどく過負荷で、しかも劣悪なコンクリートで支えられていたことが明らかになりました。

 

百貨店の会長ジュン・リー - サンポンは、犯罪過失で懲役10年の判決を受けました。前述のイ・ジュンは、息子のイ・ハンサンと共に、汚職と事故による殺人で7年の刑を宣告されました。また、市の多くの関係者達も逮捕されました。

 

サンポン百貨店の未曾有の事故の後、建築に関する慣行の改善と安全規定の強化により大きな注意が払われ、結果、韓国の多くの建物が破壊され、再建されました。

 

 

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