9月14日は

グレース・ケリー

亡くなった日

 

 

 

 

  グレース・ケリーとは

 

 

 

 

 

Grace Kelly(グレース・ケリー)は、1929年11月12日に、アメリカはフィラデルフィアの非常に裕福な家に生まれました。

 

女優としては、名監督アルフレッド・ヒッチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」などでヒロインを務め、『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞するなど、輝かしい成功を収めました。

 

また、何より彼女の名を有名にしたのは、カンヌ映画祭に参加した時、モナコ大公レーニエ3世に見初められ、現実にモナコ公国のプリンセスになったことでしょう。

 

1982年9月14日、グレース自ら愛車のローバー3500のハンドルを握っていましたが、急カーブを曲がりそこね、ローバーはそのまま40メートルの斜面を転がり落ちました。グレースが亡くなった時、まだ52歳の若さでした。

 

 

  恋多き女性

 

 

同時代に活躍したマリリン・モンローのセクシーでホットな魅力に対して、グレースは、「クール・ビューティ」とも呼ばれる気品に溢れた魅力が人気でした。

 

しかし実際は「恋多き女」と呼ばれ、大変情熱的な女性だったと、数々の本に記されています。

 

例えば、ケネディ家など数々の回顧録を執筆してきたローレンス・リーマーは、ヒッチコックと共演した8人の女優を描いた著書「ヒッチコックのブロンド」の中で、グレースは自身の魅力を知っていて、多くの男性を誘惑したと言います。

 

「Wikipedea」にも、主な相手として、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデン、ジャン=ピエール・オーモンなどの名前が挙がっています。この他にも浮名を流したお相手はたくさんいるようです。

 

 

  複雑な恋愛関係を生きていた

 

 

前述の著書「ヒッチコックのブロンド」の中で、グレースが当時の彼氏の前で、他のボーイ・フレンドからもらったブレスレットをつけていたため、グレースの浮気がバレて、その彼氏と別れることになったいきさつが書かれています。

 

その彼氏とは、ニューヨーク市の演劇学校の教師、ドン・リチャードソンさん(30)。グレースはまだ有名になる前のティーンエイジャーでした。ドンさんには、まだ正式に離婚できていない妻がいましたが、グレースは結婚相手として両親に紹介。

 

2人がいつものように逢瀬を重ねていた時、グレースはエメラルドをちりばめた金のブレスレットを身に着けただけで、裸で闊歩。ドンさんは、富豪の外交官のアリ・カーンと関係を持った女性が、同じものを着けていたのを見たことを思い出しました。また、ドンさんは、グレースがアリだけでなく、他にも複数の人物と交際していることを知っていました。

 

ドンさんもグレース以外にも愛人がいたので、裏切られたという思いには至らなかったとのことですが、ドンさんはブレスレットを水に投げ込み、「もう終わりだ」とグレースに告げたということです。

 

ドンさんが部屋を出ていく前に振り返り、グレースを見たところ、彼女は泣いたり取り乱したりすることもなく、裸のまま、ブレスレットを水中から拾い出すことに専念していたそうです。

 

 

  複雑な恋愛事情を生きていた

 

 

グレースが付き合った相手は皆、父親を慕うかのように、年齢の離れた年上の男性でした。グレースがアカデミー賞を受賞した時でさえ、父親はグレースを無視しました。グレースが父親に認めてもらいたかったこと、父親からの愛情を求めていたことは誰もが知る有名な話です。

 

年上で恋愛経験も豊富だった彼らは、それぞれ問題も抱えていました。例えば、クロスビーは、グレースと交際しつつ、後に妻となるキャサリン・グラントとも交際していましたし、ホールデンは「もうこれ以上子供はいらない」と言い、子供を望んでいたグレースとは関係を終えることとなりました。

 

グレースが付き合った相手とは、皆、交際期間が2〜3ヶ月、あるいは1本の映画の撮影期間だけという短い恋愛でした。

 

 グレースがレーニエ大公と結婚した時、「あなたがこの結婚を受け入れたのは、すべてのあなたが欲しいカードが揃っていたからでしょう」と言った記者もいたそうです。独身、プレイボーイとして有名で女性の扱いに慣れていること、富も名声もすべてが実の父親より上だったことなどです。

 

王室という特殊な世界での生活、子供達との確執など「不幸な結婚」と呼ばれながらも、レーニエ大公とは一男ニ女をもうけ、亡くなるまでの26年間を共にしました。

 

 

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