選手村テロ

人質全員死亡

ミュンヘン・オリンピック

 

 

 

 

  事件のあらまし

 

 

 

 

1972年9月5日、旧西ドイツ・ミュンヘンで、夏季オリンピック開催中に、選手村が襲撃されたテロ事件です。

 

犯人はパレスチナ過激派「ブラック・セプテンバー」8名で、イスラエル選手団11名を人質に立て篭もりました。犯行グループは、2名を殺害した後、イスラエル政府に対し同国に収監されているパレスチナ人234名の釈放を要求しました。

 

最終的に犯人グループが出国を求めた空港で、犯人グループと警察が銃撃戦になり、犯人グループ8名のうち3名は逮捕。しかし残りの犯人5名と人質全員、警察側数人が死亡するという最悪の結果に終わりました。

 

この事件は後の西ドイツ国家とオリンピック開催国に様々な教訓を残しました。

 

 

  時代の背景

 

 

西ドイツには、このミュンヘン・オリンピックを利用して、「ナチズム」の暗黒の歴史を払拭するために、明るく開かれた正しいドイツとして、生まれ変わった姿を世界に発信したいという思いがありました。

 

オリンピック開催中に警察官の姿があちこちで目立つと、世界にまたあの時代の西ドイツを彷彿させると懸念。

 

結果、オリンピックのセキュリティ対策の予算も最小限に抑えられ、オリンピック会場にも選手村にも配置されたのは、通常の警察官や警備員でした。

 

イスラエルは特別警戒(警戒強化)を求めましたが、西ドイツは特に措置を講じることはありませんでした。

 

 

  選手村へ侵入

 

 

犯人グループが選手村へ侵入する時、彼らがフェンスを乗り越える姿が警備員に目撃されていました。しかし運動着を着て大きなバッグを持つ彼らを、警備員は門限を破って帰ってきた選手達だと思い、さして気にも留めなかったのです。

 

そのバッグの中には、自動小銃や手榴弾、弾丸が入っていました。

 

西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始していましたが、イスラエル政府との交渉は合意に至りませんでした。

 

また当時西ドイツには、現代のSWATのような、本格的にテロ対策のできる部隊はありませんでした。

 

 

  最悪の最期

 

 

犯人グループは人質を連れてエジプト・カイロへの脱出を要求。西ドイツ側はエジプト政府から了解を得たと嘘をつき、出国を装った飛行場での犯人グループの狙撃計画を立てました。

 

選手村を占拠している犯人グループと人質全員はヘリコプターで空港へと向かいます。そして犯人グループのリーダーともう1名が、安全確認のためルフトハンザドイツ航空のボーイング727内に乗り移った時、これから飛行だというのに誰ひとり乗務員がいないことで、自分達をはめる罠だということに気がつき、慌ててヘリコプターに引き返すのです。

 

引き返す彼らの1人に狙撃手は滑走路で発砲。しかしリーダーはヘリコプターへ辿り着き、警察へと応戦し、銃撃戦に。

 

最後は犯人の1人が手榴弾で自爆。人質全員が乗ったヘリコプターが爆発し炎上。人質全員が死亡という悲劇に終わりました。人質達は両手を後ろ手に縛られ、目隠しされたまま数珠つなぎにされていたため、逃げることができなかったのです。

 

 

  イスラエル・パレスチナ問題

 

 

イスラエルとパレスチナの問題の発端は2000年以上前ですが、激しい戦闘は現在まで続いており、解決の目処は立っていません。

 

ユダヤ人(イスラエル)とアラブ人(パレスチナ)という人種問題、宗教問題、また歴史の中に見る大国の思惑、周辺の国々の干渉、こういった様々なものが絡み合っています。

 

現在、ヨルダン川西岸地区はほぼイスラエルの軍事支配下に置かれ、パレスチナ自治区は常に厳しく監視されています。


さらに、ハマス(パレスチナ・ガザ地区を実効支配する武装組織)を支援するイランとイスラエルが互いにミサイルで攻撃し合うなど、ますます複雑な様相を見せています。

 

 

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